これが恋かと問われれば12
顔をあげると、日は沈み、空は蒼く暗かった。外灯にぼんやり白い光が点き、賑やかだった人の気配も消えている。
家に帰ろう。
阿部が涙の跡を念入りに消そうと顔を袖で拭いかけたとき、
「タカヤ!」
乱暴に自分の名前を呼ぶ、あまりにも耳に馴染んだ声に動きが止まる。
「おい、タカヤ!」
再び叫ばれて、顔だけをぎこちなく向けるとそこに榛名がいた。肩を怒らし、険悪な表情をうかべ、公園の入り口から駆けんばかりの勢いでまっすぐこちらに向ってくる。
視線の険しさに身が竦むと同時に、久しぶりに目にした榛名の姿に胸が騒ぐ。熱がこみあげてきて、知らず涙が一筋、頬を伝った。榛名はそんな阿部の姿に怯んだように一歩だけ後ずさったが、すぐに体勢を整えると怒鳴りつけてくる。
「なんで、おめーは、こんなとこで泣いてんだよ!」
「・・・・・・泣いてなんか、いません」
「いや、明らかに泣いてるだろうが!」
「泣いてねえっつってんだろ!」
言ったそばから涙がこぼれたが、阿部は榛名を見上げて強気に睨みつける。榛名の姿に心が躍った情けない自分を悟られたくなかった。それに、またすぐに泣く奴だと軽蔑されるのもイヤだ。
「ああもう、すぐ泣くなっつーの!だいたいなんでお前が泣いてんだよ!!泣きたいのはオレだぞ!」
「知らねえよ!つか、あんたのせいだろ。さんざん人につきまとっておいて、いきなりまったく連絡なしかよ!オレのことなんてどーでもいいのはわかってたけど、だからって勝手すぎじゃねえか」
「んだと、そんなん、オレはお前のこと好きなのに、お前はオレのこと好きじゃねえっつーんだからしょうがねえだろ!」
苛立ちまじりの榛名の言葉を耳にした瞬間、阿倍の時間が止まった。
「・・・・・・」
「んだよ?」
「・・・・・・」
固まってしまった阿部へぶっきらぼうに問い返したが、あまりに反応がないので不安げに顔を覗きこむ。
「おい、タカヤ?どうした?」
間近に寄せられた榛名の顔をまともに見ることができなくて阿部は俯いた。
なんだか今、とんでもないことを聞いてしまった気がする。
「・・・・・・・元希さん、オレのこと・・・その、す、す・・・」
「は?好きだよ。当たり前だろ」
当然とばかりに告げられた言葉に、体中の血が音を立てて顔に集まる。榛名から好きだと言われることが、こんなに心を激しく騒がせることだなんて思いもしなかった。
黙り込んだままの阿部の姿を不思議そうに見ていた榛名が、ふと眉をしかめると呆れたように尋ねてくる。
「・・・まさか、お前。今までわかってなかったんか?」
俯いたままで小さく頷いた。
「バカか!お前は!!いったい何考えてオレとつきあってたんだよ!」
まったくそのとおりなのだが、高飛車に言われると、阿部の勝気な心に火がつく。
「だって元希さん、一度もオレのこと好きだなんて言わなかったじゃないすか!」
「言っただろ!」
「言ってません!」
「言った!」
「聞いてねえよ!だいたいあんた、いきなりキスしたじゃねーか!」
「・・・あー、そういやそうだっけ。いや、でもふつう言わなくてもわかんだろ」
「わかりません」
「好きでなきゃキスなんかしねえだろ。人をナンだと思ってんだお前は。つーか、わかんねえならどうしてお前も黙ってキスさせてんだよ。なんでオレに聞かねえんだよ」
「それは・・・聞いてもしかたないと思って・・・」
歯切れ悪く黙り込むと、榛名も気まずそうに頭を掻いて小さく呟く。
「・・・言葉が足りねえってこういうことか」
「は?」
「いいか。よーく聞いとけよ。オレはタカヤが好きだし、お前にボール投げるのもすげー好きだった。わかったか」
顔に指をつきつけられ、告白というには傲慢な言いざまに、あっけにとられた。榛名からの思いがけない言葉を鈍った頭がようやく理解すると再び頬が上気しはじめる。
しかし、一方で今までの自分と榛名の距離を考えると、突然の言葉を手放しで信じることができない。いや、信じてしまうことが恐い。
言うだけ言って満足げに自分を見つめている榛名に、おずおずと切りだす
「・・・そんなこと言ったって元希さん。今のほうがシニアのときよりずっと楽しそうに投げてるじゃないすか・・・」
「は?そうか?そりゃもちろん投げんのはおもしれーよ。けど、シニアで後輩でチビで泣き虫のくせに小生意気なキャッチャーが、このオレの剛速球にくらいついてくれてたんが、すげー嬉しかったんだよ。あんま昔のことは覚えてねーのに、それだけは忘れらんねえくらいにな」
「・・・でも、あんた、ピーピー泣く捕手はお断りだって言った・・・」
なおも弱く反駁すると、榛名が大きく首を傾げる。
「はあ?オレ、そんなこと言ったか?」
「言いました。前にうちの学校にあんたが来たとき」
忘れられない。榛名に認められてなかったと思い知らされた言葉だった。なのに。
「わりぃ。覚えてねえ」
あっさりと否定されて唖然とする。
「お前、そーいうこと、ほんっとよく覚えてんな。どーせそんなん売り言葉に買い言葉ってやつじゃねぇの。いちいち気にすんなよ。本気でそんなこと言うかよ」
「だって、あんたがそう言ったから、オレは・・・」
榛名には認められていないと、ちゃんと相手にされてないと思っていた。だから一緒にいてもすぐに離れていくだろうと、榛名とのことは何も考えないようにしていたというのに。
「悪かったよ。でもお前がよく泣くのはほんとじゃねえか。今も泣いてっし。・・・でも、そういうところも好きだけどな」
慣れない甘い言葉に身をひく。
「・・・元希さん、なんか悪いモンでも食ったんすか」
「んだと、てめーがよくわかってねえから、ちゃんと言ってやってんじゃねえか。ったく、かわいくねー。ま、タカヤは黙り込んでるよか、こんくらいがいいな」
機嫌よさげに頭を叩かれて、また頬が熱くなる。いったいどういう言葉攻めだと返す言葉もでてこない。
「だいたい、オレがお前のことわかってないって言ってたけど、タカヤだってオレのこと全然わかってねえだろ。つか、お前って自分のこともわかってねーんじゃねえの」
「・・・ちゃんとわかってます。そんくらい」
言い返したものの、図星をさされて動揺する。
たしかに榛名と会っているときは何も考えないようにしていたから、自分の気持ちもわからないままだった。ただ、榛名には逆らえないと引きずられていた。
自分の気持ちが見えてきたのは、榛名と会えなくなってからだ。
たぶん、きっと自分は榛名のことを―――
「よし。じゃ、お前の気持ちを言え」
「は?なんでそうなるんすか!」
「なんでってこたねーだろ、ここはどう考えてもお前がオレに告白する番だろーが!オレはちゃんと言ってやったんだしな」
「そんなん、あんたが勝手に言っただけでしょ。だいたい告白ってなんすか」
「だってタカヤは、どう考えてもオレのこと好きだろ。呼び出したら黙ってついてきてたし」
「それは、あんたが強引に呼び出すからだろ」
「好きもでなきゃ、ふつーキスはさせねえよな」
それについては自分でも同じことを考えていたから、何も言えなくなってしまう。
答えることができずに黙り込んでいると、柔らかな目で榛名が見つめているのに気づいてそっぽを向いた。どうにも榛名の穏やかな表情を見ると調子が狂う。
「そういや、お前、これ、どうしたんだ?」
逃げた顔を追いかけるように覗きこんできた榛名が、額を指差して首を傾げる。
「え?ああ。ちょっと、練習でミスってボールが」
「ぶはっ・・ボール取り損ねたんかよ。ふーん。そうかそうか。オレのこと考えてぼーっとしてたんだな」
「・・・・んなわけないで・・・・・っつ」
ふいに榛名が顔を寄せてくる。額に唇で触れられた。絆創膏ごしのキスの感触に発火しそうな熱が集まり、痛みと羞恥で体が跳ねた。
「お、痛てぇ?」
「痛いに決まってんだろ!」
掠めるようなキスをして離れた榛名に抗議すると、見つめる目に悪戯っぽい光をうかべてもう一度顔を近づけてくる。
「んじゃ、こっち」
囁き声が耳朶をかすめて、今度は唇を淡く啄ばまれた。くり返し慈しむように唇で触れられる。優しい動きにほだされて結んでいた唇をゆっくりと開くと、口づけが深くなった。反射的に退くと、榛名の手に力強く頬を捉えられしまう。繊細な動きと久しぶりの口づけの甘さにゆっくりと意識が絡め取られていく。心地よさに流されて阿部は榛名に身を委ねた。
「タカヤ、やっぱりお前オレのこと好きだよな」
緩やかに唇を解きながら、榛名が確信めいて問いかけてくる。意識が浮つき、呼吸が乱れて答えられずにいると、瞳を覗き込んで重ねて問う。
「それともお前まさか、ミハシにもこんなことさせてんの?」
「なっ、んなわけねえだろ」
驚きのあまり慌てて否定すると、榛名が頬を緩める。
「だよな。タカヤは好きでもない男にチューなんてさせねえよな」
「・・・・・・」
嬉しそうに告げられて言葉に詰まる。言い返せないことが悔しくて精一杯睨みつけたのに、さらに笑みをかえされていたたまれない。
連絡がなかったときは会いたくてたまらなかったのに、いざ向かい合えばイライラと気が昂る。触れられると逃げ出したくなるほど緊張するのに、体温に安堵する。
榛名に関わると、どうしようもなく情緒不安定だ。
きっとこれが恋ってもんなんだろうと冷静に判断する自分がいる。だからといって、この気持ちを榛名にそのまま告げる気持ちにはなれなかった。どうにも自分は告白してくれた女子のように素直になることはできないらしい。
いっそ自分の気持ちに気づいていなかったときのほうが、簡単に好きだと言えただなんて皮肉なものだ。
―――そうか。
つと、阿部は手を伸ばすと、榛名の手をとった。
大切な大切な榛名の左手。
ボールを掴み鍛えられた手は硬く、温さが快い。
もっと触りたい、湧き上がる欲望のままに両手でその手を包み込んで握り締める。触れ合った皮膚からどくどくと脈動が伝わってくる。
頭で考えても見つけられなかった感情が胸の奥から現れる。この手に触れていれば、きっと正直になれる。
黙って阿部に手を取られたままの榛名が興味ぶかげに尋ねる。
「前もこうやってたよな。オレの手が好きか?」
「好きです」
「オレのことは?」
追い詰めてくる榛名を上目遣いに見つめなおして、握る手にそっと力をこめた。目を逸らさずに胸の中の答えを小さく呟くと、会心の笑みを浮かべた榛名の顔が近づいてくる。柔らかな触れるだけの口づけを目を閉じて受け入れた。握り締めた手が熱くて、溶けそうだった。
「お前、手ぇ握ってるときは素直なんだな」
顔を寄せたまま、榛名がそっと唇だけを離す。額がぶつかりそうになって、傷口がチリチリと疼いた。結んだ手を柔らかくほどいた榛名が、頬を包み込むようにやわらかく撫でてくる。
「手、離してても逃げねえ?」
「さあ、どうでしょうね」
逃げるわけがない。そんなこと榛名にだってわかってるはずだ。
それでも、わざとつっけんどんに返したら、屈託なく笑われた。
「んじゃ、好きなだけ握ってろ」
差し出されたその左手を大切に握りしめた。