cloudy
何が足んねーんだ。
球団の先輩の自宅に招かれていた榛名は、玄関先で見送ってくれる目の前の新妻を凝視した。オフシーズンに挙式をあげたばかりの先輩の奥さんは、親しみやすい愛嬌のある笑顔をうかべている。
幼馴染の気心のしれた仲で、先輩のために短大の家政科で栄養学を学んだという奥さんが作った料理はバランスがよくてどれも美味しかった。こいつのおかげで今シーズンはもっと頑張れる、と照れくさそうに言った先輩の言葉にも素直に納得できた。だが、それが羨ましくて、もの足りないわけではない。
オレだってタカヤがいるし―――
それなのに、もてなされているうちに、何かが自分たちには欠けている気がしてきた。
先輩の隣にちょこんと立つ小柄な姿。愛らしい笑顔。
たしかにかわいい、かわいいけど、タカヤのほうがもっと綺麗でかわいい。
「おいおい、榛名そんなに見つめたって奥さんはもらえねーぞ」
「こいつ顔だけはいいから気をつけないと」
新妻の姿をじっと見つめる榛名に、一緒に来ていた他の先輩たちから、からかいの声がとぶ。
「おまえもさっさと嫁さんもらって落ち着け。榛名は見た目が派手だから、マスコミに騒がれやすいだろう」
「はは、そーっすね」
結婚した先輩の言葉を榛名は笑って受けながした。
気持ちはとっくに落ち着いてるんすけど、肝心の相手が気づいてくれないもんで。いったいいつになったらわかってくれるんでしょーね。
なんて、この場で先輩相手に相談できることではない。
それにしても、何が足りねーんだ。タカヤになくて、目の前の新妻にあるもの。
榛名はもう一度ちらりと新妻に視線を向けた。
顔じゃなくて……胸?胸のあたりがひっかかる気がする。そりゃたしかにタカヤにおっぱいはねーけど、そうじゃなくて…。
「オレたちに足りないものはエプロンだな」
「はあ」
またわけのわからないことを言い出した、と読みかけの雑誌に目をとおしたまま、阿部は気のない返事をかえした。
「てわけで、これ着ろ。タカヤ」
手にしていた袋をごそごそ探ると、お披露目するように黒いエプロンを両手に持ち、満面の笑みを浮かべている。そんな榛名を横目で一瞥した阿部は、すぐまた視線を雑誌に戻した。
「おい、無視すんな!!」
「見ました。エプロンですね」
「そうじゃなくて、ちゃんとこっち向け!せっかく買ってきたんだぞ。リアクションなさすぎじゃねえか」
不満そうな榛名の声に、仕方なく雑誌から目を上げると無表情に見つめかえす。
「元希さん。オレはエプロンなんて着ませんよ」
「あ?なんでだよ、着ろよ!」
「だって、必要ないですから」
「必要ねーわけねーだろ。おまえ、ときどき料理してるじゃねえか」
「エプロンがなくても料理は作れます」
「濡れるだろ、汚れるだろ、そのためのエプロンだろ!!」
「濡れたってそのうち乾くし、汚れたら着替えればいいだけです。エプロンなんか要りませんよ」
「なんでだよ!濡れたり汚れたら気持ち悪いだろ、エプロンつけたほうが効率いいじゃねえか」
エプロンを押しつけながらにじり寄ってくる。やけにしつこいなと不思議に思いつつ冷静に答えた。
「かわんないです。つか、いちいち着るのもめんどくさいです」
「じゃあオレが着させてやるから…」
手にしたエプロンを胸にあてられそうになって、手で振り払う。
「いらねーってば。だいたいエプロンなんか使ったら洗濯が増えるじゃねえっすか。それに収納場所も考えなきゃなんねーし。物を増やしたら、その物を片付ける場所が必要になるんですよ」
「これっくらい、そこらへんにほっときゃいいだろー」
「じゃあ、あんたの部屋にほっといてください。とにかくオレは要りませんから」
「ターカヤー」
甘えるような声をあげる榛名にため息をつく。
「だいたいなんでいきなりエプロンなんて…」
「先輩ん家の、嫁さんが着てたんだよ」
「はあ?」
そういえばこの前のオフ日に、榛名は球団の先輩の家に遊びに行っていたと思い出す。
「それとこれとがどういう…」
「すげーいい感じだったから、タカヤも着ろ」
「なんでオレがそんな真似しなきゃなんねーんですか。おことわりです」
「せっかく買ったってのによー」
「そんなによかったんなら、元希さんが着ればいいじゃないすか。とにかくオレは着ません」
「ターカーヤー」
エプロンを手に、すがる榛名にそっぽをむいて、会話を打ち切るように立ち上がった。
夏季休暇も後半に入った。今日は実家に帰省したとき会えなかった三橋が遊びにくることになっている。榛名が出かけるのを見送ってから部屋の掃除をしていると、リビングのテーブルに放り出されたままのエプロンが目にとまる。
まったく何考えてんだ、あの人は。
朝食の準備をしているときも、エプロンをしていない自分の姿を見て、露骨にがっかりした顔をしていた。願いが叶えられなかった子どものような目を思い出すと、つい口もとが緩んでしまう。まるで弟のシュンが小さかったときみたいだ。兄の性分ゆえか、ねだられる目には弱い。
そんなに着てほしいんなら、着てやらねえこともないけど。
エプロンを着るくらいで喜ぶのなら、着てやってもいい。意地をはるほどのことでもないし、せっかく買ったのに着ないのも、もったいない。
ただし毎回つけるのがめんどくさいのも事実なので、一回だけだ。一回だけ。
エプロンを手にして決意していると、電話が鳴った。
「阿部君?榛名、いるかな?」
「さっき出かけました」
野球だけでなく、コマーシャルや雑誌への露出が多い榛名には、野球以外の雑務を管理してくれるマネージャーがいる。留守番代わりに榛名のマンションに住んでいる阿部は、たまに伝言を受け取ったりしていた。
「そうか。携帯が繋がらなかったから。あ、阿部君。もし、マスコミになんか聞かれたりしてもあれは無視しておいて。ヘンなやつらもいるけど、相手にしなきゃいいから。ま、君は事情も知ってるから大丈夫だな」
「は?」
「じゃあ」
慌しく告げると、挨拶もそこそこに電話は切られてしまった。なんだか忙しそうな様子だった。いったい、なんの話だったんだろう、と不思議に思いながら受話器を置いたとたん、また電話が鳴った。こんなに自宅の電話が鳴るのも珍しい。
「こんにちは!隆也くん!元希は!?」
今度は榛名の姉からだ。榛名に何があったんだろうかと訝りつつ、さっきと同じ言葉を繰り返した。
「さっき、出かけたとこです」
「あー、やっぱり。携帯が繋がらないのよね。まあ、いいわ。そんなことより、ねえ、あれほんとなの?」
「あれって?」
「もうー。今日の元希の記事に決まってるじゃない!!ついに元希も週刊誌デビューね。あの子ったら、間抜けなとこがあるからいつかこういうことになると思ってたのよ」
楽しそうに語られる言葉に、阿部はますます首を傾げる。
「しゅうかんし、ですか?」
「あら?隆也君、知らないの?」
「はい」
「なーんだ。知らないんだ。ねえ、おかーさん、やっぱり嘘みたいよー!」
電話越しに、どうやら榛名の母とやりとりしているらしい声が聞こえてくる。
「ごめんごめん、そうだろうとは思ってたんだけど。ほら、こんなこと、はじめてだったからつい気になっちゃって!」
「いや、あの、嘘かどうかは…」
「あ!キャッチ入っちゃったわ。また親戚かも。もう、みんなこういうの好きだから、ちょっとした大騒ぎなの。ごめんなさい、隆也君、またね!」
これまた慌しく通話を切られて、阿部は眉間に皺を寄せる。
なにやら大変なようだけど、人の話を聞かない一方的なところはさすが元希さんの家族だよな。
ため息をついて、受話器を置いた。
立て続けの電話の内容はわからないままだが、どうやら、週刊誌に榛名が出ているらしい。新聞やスポーツ関連の雑誌に榛名が掲載されることはしょっちゅうなので、今さらそんなことで騒がれるはずがない。ということは、それ以外の何かでとりあげられているということだろう。
週刊誌ってなんの雑誌だ?
スポーツ関連以外の雑誌には興味のない阿部には検討もつかない。気にならないわけではないが、考えてもわからないものは仕方ない、榛名が帰ってきたら聞けばいいだろうと掃除の続きをはじめた。
「あ、阿部くん、これつまらないものだけど」
玄関で顔を合わすなり、三橋が勢いよく箱をおしつけてくる。
あいかわらずヘンなヤツだと苦笑しながら受け取り、玄関できょろきょろしている三橋に、とりあえず部屋にあがるように声をかける。
はじめて部屋にやってきた三橋は、居場所を見つけられない猫のようにうろうろ落ち着かない。ここに座れと、グラスに入れた麦茶をテーブルにおくと、おとなしく腰をおろした。互いに近況を報告しあったあとで、さっき三橋に渡された箱を思い出す。
「これ、開けていいよな」
こくこくと頷く三橋を見て、さっそく、箱の包装紙を解いていく。
「オ、オレよくわからないから、ルリに選んでもらった」
「ルリ?」
「オレのイトコ」
「ああ」
そういえば中学のとき、三橋はイトコの家に同居していたと言っていたっけ。その子のことだろうかという勘繰りは、箱の中身を見た瞬間に消えてしまった。
「…なんだよ、これ」
「エプロン、だよっ」
いや、そりゃ見ればわかるっつーの。腹立つくらい。
紺色のエプロンを手にとって、阿部はうなだれる。
「今、エプロンって流行ってんのか…」
「そ、そうなの?よかった!」
よくねーよ、と阿部は心で呟いた。まったく、どいつもこいつも何考えてんだ。
「あ、阿部くん、着てみてっ」
「は?なんでだよ」
あからさまに拒否の声をあげたというのに、三橋は気づかないのか嬉しそうにエプロンを押し当ててくる。榛名相手なら遠慮なく振り払えるのだが、三橋の場合はそうもいかず、阿部は観念した。つねにオレ様の榛名のような強引さこそないが、三橋はやんわりと意思を押し付けてくるときがある。
なんだかんだいって、こいつも投手なんだよな。
榛名と三橋、まったく似てない二人の微妙な共通点を考えながらエプロンを身につけた。
「ほらよ」
「阿部君、似合ってる!」
「誰が着ても同じだろーが」
そもそもエプロンに似合うとか似合わないとかあるのだろうか。
「合宿で、いっしょに朝ごはん、作ったね」
「おー、そういや、んなことあったな。一年のときか。適当に作ろうとしてたら、シガポの話聞かされて、すげーびびったな」
「オ、オレも」
「あのおかげで、ちょっとは料理のことわかるようになったから、家を出た今もたすかってるけど」
「それ着て、朝ごはん、作ってね」
邪気のない笑顔で告げる三橋を見て、眉間に皺をよせる。
「…つか、おまえ、まさか、これ榛名に頼まれたんじゃねーだろうな」
いくら変人の投手同士だからとはいえ、タイミングがよすぎやしないだろうか。
だが、三橋と榛名に接点などない。冗談半分で言ったというのに、突如三橋の態度が急変した。
「は、榛名さんっ…!」
出会った頃によく見たような、おどおどとした態度で左右に首を振る。言った阿部まで驚いてしまった。
「おい、まさかほんとに頼まれたのか?」
「だ、大丈夫だよ。榛名さんには阿部君だけだから!」
「はあ?」
阿部の言葉を聞いていないのか、まったく会話がかみ合わない。
「あんなの、きっと作り話だよ。そういうもんだって、花井君も言ってた」
「花井?」
「気になって、オレ連絡したから」
なんで突然、花井が出てくるのかさっぱりわからないが、高校の三年間で身につけた三橋語の法則と、今日、立て続けにかかってきた電話を思い出す。
「それってもしかして週刊誌の話か?」
「う、嘘だよね」
「つか、オレ、その内容知らねーんだけど。いったい何の記事なんだ?」
「あ、阿部君、知らないの?」
「知らねぇ」
知らないという言葉に、さらに三橋の動作が挙動不審になる。
「し、し、知らなければそれで…」
「教えろよ。気になんだろ」
自分は知らないのに、周りばかりが大騒ぎしていることに、だんだん腹が立ってくる。
「三橋」
低い声で問いかけると、三橋は青ざめながらも口を開いた。
「…そ、その、あの、は、榛名さんが、お、女の人と、買い物してたって…」
「…それだけ?」
何事かと思ったのに、あまりに普通の出来事で拍子抜けする。だいたい、それだけのことで週刊誌に載ったりするんだろうか。
「おい、それだけか?」
問うと三橋は目を泳がせて、顔をさまよわせる。
「他にもあるなら、ちゃんと話せって!」
「は、はいっ、」
大きな声で怒鳴ると、肩をすくめてうつむいた三橋が、小さな声で言った。
「そ、それで、あの、も、もしかしたら、榛名さんは、その人と、け、…結婚するんじゃないかって…」
「結婚?」
「誤解でしょ。榛名さん、なんでもないって言ってたんじゃない?」
「さあな、聞いてねぇからわかんねえ」
我知らず声が低くなる。
榛名が結婚?あまりに突然の話すぎて頭がついていかなかった。ただ、感情だけが先走るように胡乱に荒れはじめる。
そもそも榛名に、そんな噂が立つ彼女がいたことすら初耳だ。
俯いた視線の先に、三橋に着せられたエプロンが目に入る。
もしかしたら先輩の奥さんがエプロンを着ていて…なんて言い出したのは、そういうことだったんだろうか。自分が結婚するから、家庭的なものに興味を抱いたんだろうか。…オレにどっかの女と同じことしろってかよ。ふざけんな。
「ご、ごめっ。オレ、もう帰るね!」
三橋が慌しく立ち上がって、自分が黙り込んでいたことに気がついた。
「悪ぃ。せっかく来たんだからもっとゆっくりしてけよ」
「う、ううん、今日はもういいよ。あ、阿部君に会えただけでよかった」
別れ際まで、きっとでまかせの記事だから気にしないでと何度も謝る三橋に手を振った。気になんかしてない、と笑ってやりたかったのに、なぜか笑うことができなかった。
不明瞭な感情に引きずられ、俯きがちにマンションへと戻ろうとしたとき、いきなり道を阻むように男が現れた。びっくりして顔をあげると、目が合うなり、口早に話しかけてくる。
「君、榛名選手の後輩だよね?」
「……」
「部屋の留守番をまかされてるんだよね。どう?最近、女性が来たり、電話がかかったりしてない?榛名選手から特定の女性の話がでたり、頻繁にメールしてたりとかないかな?」
薄っぺらい笑顔をはりつけたままの男に、立て続けに問われる。
「知りません」
「ねえ、君、学生でしょう?ここだけの話、喋ってくれたらすごい額の謝礼が出るよ」
わざとらしく声をひそめて誘われる。榛名のマネージャーが言ってたのはこのことか。
話すもなにも、自分は榛名が女と買い物してたことすら知らなかったくらいだ。
自分だけが何も知らなかったことにむしゃくしゃする。いっそ話せるものなら何でも話してやりたいと八つ当たりのように思った。
「なんでも欲しいもの言ってよ?」
無言でマンションに入ろうとする阿部に男が食い下がってくる。
コマーシャルや雑誌に出たり、女性に人気があるから華やかな雰囲気のある榛名だが、その実生活は野球一途だ。デビューして以来、今まで一度も女性関係の噂が流れたことはない。それだけに何が何でも情報をひきだしたいのだろう。
「家庭用品を購入してたんだけど、結婚について話したりしてない?」
「してません」
「新しい部屋に引越すとか、君にここを出ていってもらいたいとかそんな話なかった?」
「……。なにも知らねーって言ってんだろ」
それだけ言うと阿部はオートロックの扉の向こうに逃げこんだ。
なんで自分がこんな不愉快な気分にさせられなきゃなんねえんだ。
急ぎ足で部屋に駆け込んで、怒りがおさまってくると、胸が燻されるように気分が悪くなってくる。
―――君にでていってもらいたいとかそんな話なかった?
オレが住んでいることが邪魔ってことか。
余計なお世話だと苛立つ一方で、じわじわ胸の奥が冷たくなりはじめる。
だが、もし榛名に恋人ができたのなら、自分がここに住んでいるのは不自然なんじゃないだろうか。まして、結婚するともなれば、なおさらだ。
昔から榛名はよくもてる。女受けする整った顔だし、それだけじゃなく人を惹きつける存在感がある。榛名が野球第一で自覚がないだけだから、その気にさえなればいつでも相手は見つかるだろう。今まで彼女がいなかったことが不思議なくらいなのだから。
ちくちくと胸の奥を小さなトゲで刺されるような不快感。息苦しい。じっとしていると窒息させられそうで、深く息を吸って吐いた。
とにかく、榛名に出て行ってほしいと言われたら、すぐに出て行けるようにしておこう。
だが、そう考えたとたん、なぜか目が熱くなった。
寂しいんだろうか。いやきっと悔しいんだ。
榛名に無理矢理ひっぱりこまれたようなものなのに、榛名の都合で出て行かされるなんて。
いっそ、それなら―――
「タカヤー」
戻ってきた榛名は、真っ暗なリビングの電気をつけた。阿部が出かけている様子ではないのに、どうして電気がついていないのだろう。
「タカヤ?」
こんこんと軽く部屋のドアをノックして開けると、机にむかう阿部の姿が見えた。薄暗い中で、パソコンの白い光が浮かび上がっている。
「おいおい、こっちもかよ。電気つけろ。目悪くなるぞ」
照明のスイッチをつける。パソコンを覗き込んでいた阿部が、部屋の明るさに驚いたように顔をあげる。どうやら榛名が帰ってきていたことにも気づいてなかったらしい。
「もとき、さん」
「なんだよ、パソコンに夢中になって、えっちな画像でも見てたんか?………!!……タカヤッ」
物憂げな表情を浮かべている阿部が、エプロンを着ていることに気がついて飛びついた。
「んだよ、ちゃんと着てるじゃねーか。タカヤ、やっぱ似合うなー」
抱きついて頭を顎でグリグリしていると、はい、と気の抜けたような声が胸の中で聞こえてくる。いつもなら、やめてくださいと抵抗する頃なのに、腕の中の阿部はじっとしたままだ。
「どうした、調子でも悪いのか?」
腕をほどいて、顔を合わせると黙ったままで目を逸らされた。
なにかおかしい。
阿部の態度がそっけないのはいつものことだが、今日はそういうものとは違う。怒っているというか、なんというか―――
「あれ?これ、オレが買ったやつと違わねえ?」
榛名は阿部の着ているエプロンを見て、首を傾げる。
「違います。これは三橋にもらったやつだから」
「三橋?」
「遊びに来てたんです。三橋からもらって、そのまま脱ぐの忘れてました」
心あらずといった様子の阿部が言う。
「なんで、オレのは着ねーのに、三橋のは着るんだよ!」
「着せられたんです」
「オレが着せようとしたときはイヤがったじゃねえか」
「どうせ、あんたのは、どっかの女の代わりにさせたいだけだろ」
「んだよ、それ?」
まるでわからないといった顔の榛名を睨みつけてしまう。イライラしてつい怒鳴ってしまった自分自身にも腹がたつ。なんとか冷静さを取り戻そうと試みた。
「あんたが出かけてから、マネージャーさんとお姉さんから電話があって、うさんくさそうなマスコミのおっさんに声かけられました」
「あー、あれか!あいつら、お前にまで電話してたのか、悪い悪い」
阿部の言葉に、榛名が笑いながら謝る。その笑顔に怒りがこみあげてくる。
「オレは出て行きますから、これからはいつだって女を連れ込んでエプロンごっこしていいんですよ」
「?出て行くってなんだよ」
榛名が不思議そうな顔になる。
「オレ、引越すんです」
「どこに」
「どこにでも。一人暮らしの部屋なんていっぱいありますから」
ほんとは、まだ見つかっていないけど。探せばきっとあるはずだ。
さっきまで見ていたネット上の賃貸情報を思い出す。
家賃が安いと場所や間取りが悪い。場所がよいと思ったら、家賃が高い。
どこでもいいと思っていても、いざ場所を探しはじめるとなかなか見つけられなかった。そのたびに、出て行きたくないと思ってしまうのは、きっと条件のよすぎるこの部屋に慣れすぎてしまったからだ。
黙り込んでいると、榛名のため息が聞こえてきた。
「あのな、なに勘違いしてんのかしんねーけど、女なんて連れ込まねえよ」
「だって、彼女がいるんだろ」
「いねえよ」
「でも、週刊誌に載ってたって」
「あんなの嘘に決まってんだろ。お前のエプロンを買いに行ったんだよ。エプロンなんてどこに売ってんのかもわかんねーから、先輩の彼女についてきてもらったんだよ。そしたら、新生活の道具だの、結婚だの勝手に騒ぎやがって。先輩にだってめちゃくちゃおこられたんだからな」
「……」
最悪だと言いながら、榛名が髪をかきむしる。
そういえば、三橋もイトコに頼んだと言っていた。自分だって、エプロンがどこで売られているかなんて知らない。
彼女じゃなかった。
そうわかると驚くほどあっけなく、胸の中にあったわだかまりが消えていった。だけど、心の奥底にはまだ冷たい影がのこっている。
―――今回は、違っただけだ。
今は彼女がいないとしても、これからそんなことはじゅうぶん有り得る。プロ野球選手には早婚が多いから、いきなり結婚したって不思議じゃない。いつか、ここを出て行くことになることは考えていなきゃならない。
「いっ…」
いきなり、顎に手をかけられた。親指と人差し指で顔を持ち上げられる。怪訝そうな表情の榛名が間近にみえる。
「な、なんすか」
「おま…まだわけわかんねーこと、考えてんだろ」
厳しい榛名の目に見つめられると、心の中まで見透かされそうで怖くなる。
「べつに、なにも…」
落ち着かなくて、目をさまよわせながら嘘をついた。
「……」
不機嫌そうに榛名の指がはずされる。苦しかったのに、指が離れると心細い気持ちになった。そのとき、
「言えよ。何がイヤなのか。黙って居なくなるとか許さねー」
そう告げた榛名の腕に抱きしめられた。
たちまち頼りない気分が消えていく。
榛名はスキンシップが大好きだから、こうして抱きしめられることはしょっちゅうだった。すっかりなじんでしまった榛名の胸の温かさ、硬さ、匂い、呼吸の音。それだけで安心してしまう自分がいる。
ふと、はじめて榛名にこうして抱きしめられたのはいつだっただろうと記憶をたどった。シニアの頃もふざけて抱きつかれたことはあった。だけど、こうして抱きしめられることが気持ちいいと知ったのは、高校生のとき。
あの頃、阿部はまだ榛名のことをサイテーの投手だと思っていた。
シニアで別れて再会して、榛名が大っ嫌いで避けていた自分に、なぜか榛名は優しかった。それから少しずつ、榛名のことがわかってきた、と思ったけれど、まだ榛名のことをわかってないのかもしれない。
もしも、自分の知らないところで、こうやって誰かを同じように抱きしめているのかと想像すると、心細い気分になってくる。
これは子どもじみた独占欲なんだろうか。
いつまでもこうして榛名を一人じめしたい、だなんて。
でも今だけは。
おずおずと、榛名の背中に手をまわすと、榛名に顔を覗きこまれた。
そのまま、ゆっくりと榛名の顔が近づいてくる。息が触れそうな距離。いったいどこまで顔を近づけてくるつもりなのかと、視線をそらさずに見つめ返していると、榛名の動きが止まった。
「やっぱ、わかってねえな。あー、なんでタカヤにはわかんねーんだ。オレの気持ちが」
ため息をつくと、天を仰いで嘆くように言われて、わけがわからなくなる。
榛名の気持ち?
ときおり、榛名は自分に何かを求めているように感じるときがある。だけど今やプロ野球選手として華々しく活躍している榛名に、自分が与えられるようなものなんて思いつかない。せいぜい留守番くらいだ。
ほかにといえば……
「…わかりましたよ。そんなに元希さんが買って来たエプロンを着てほしいんなら着てあげます」
「……」
榛名がさらに大きなため息をついた。
「着なくていいんすか?」
「いや、着てほしい」
笑っていても、いつもの生活の中、拭いきれない翳りに気づいてしまった。
いつか出て行く日がくるとしても、その日がなるべく先ならいいのに。
それまで、もう少しだけこうして榛名と一緒にいたい。