出会いは風の中
はじまりは高校のグラウンド。
春のやわらかな光と、冬の名残の冷たい風の中。マウンドでもないその場所で、そいつは壁に向かってボールを投げていた。
見つけた瞬間、目を奪われるほどの圧倒的な球威。整ったフォームで投げ続けられるボール。無駄のない動きの繰り返しが、スローモーションのように目にやきついた。
どう見ても高校生ではなさそうだけど、あんな球を投げる投手と組むことができたら―――
そんなことを考えていたら、振りかぶった姿勢が突然止まり、顔だけこちらを向けて男が叫んだ。
「おい、そこのおまえ!なんか用かー?」
「え、いや」
不意打ちの問いかけに、フェンスを握り締めていた手を慌てて振った。見惚れているうちに、きつく握り締めていたらしい指の関節には赤い跡がついていた。
こちらをじっと見つめてくる男の顔は、前髪が長いこともあり女に見えるくらい整っていて、阿部は思わず視線をそらしてしまった。
どう考えても高校生ではないし教師にも見えない。春休み中で生徒が少ないのをよいことに、どこかの大学生が忍び込んで勝手に投げていたのだろうか。
そんなことを考えていたら、男が目の前までやってきた。近くて見ると背が高くて、少し見上げてしまう。おそらく百八十ちょっとくらいだろうが、鍛えられた見事な筋肉がついているからもっと大きく見える。そして、近くで見てもやはり端整な顔、眦の切れ上がった印象的な目。
「うっす」
ひるみそうになりながらも、叩き込まれた体育系の体質で深々と頭を下げた。
「お前、誰?」
綺麗な顔から想像もつかないほど乱暴な口調で問いかけられる。
あんたのほうこそこそいったい誰なんだ。不審者じゃねえのか。
ぶしつけな態度に不満を感じながらも阿部は答えた。
「四月からここの生徒になる阿部隆也です。野球部に入るから、グラウンドの下見を…」
「うしっ!」
言葉の途中からたちまち男の表情が緩んできたかと思うと、両手の拳を握り締めて飛び上がりガッツポーズをきめた。
「な、なんすか…」
「よく来た!記念すべき入部第一号!オレは監督の榛名元希。よろしくな」
「監督?」
硬球野球部は今年から新設されて、新しい監督が来るらしいとは聞いていた。だが、まさかこんなに若い監督だなんて…、どう見たって二十代前半にしか見えない。
訝しむ阿部をよそに、中に入れと手招きをしてくる。グラウンドにおずおずと足を踏み入れると、地面はデコボコで小石が転がり、あちこちに雑草が生えている。とてもじゃないが野球をできるような状態ではない。
まずはグラウンド整備からだな、と阿部が見積もっていると笑顔の榛名が声をかけてきた。
「ポジションどこだ?」
「キャッチャーです」
「へー。こんなんでふっとばされねえか?経験あんの?」
不思議そうにぽんぽんと腰を触られて、ついむっとして言い返した。
「ずっとキャッチでしたから」
「こんな細くて怪我しねえ?」
「そんな下手じゃないです」
「へー」
まるで信じてない軽い口ぶりに苛立ってくる。挑発するように阿部は上目遣いに榛名を見た。
「防具つけてりゃあんたの球だって捕れます」
「……おまえ、年上に向かって、ずいぶんナマイキな口の利き方じゃねえか」
呆れたように告げた榛名が、手を伸ばして顎に触れてくる。硬いタコのできた投手の指先の感触に体が震えた。
「てめえの言葉に責任とれよ」
低い声と見下ろす目の迫力に息をのんだそのとき、場違いな音楽が流れてきた。高校球児なら誰もが最初の音でわかる「栄冠は君に輝く」だ。あっけにとられている阿部から手を離した榛名は、慌てて携帯の音を止めると髪をかきむしる。
「やべ−!もう現場の時間じゃねーか!!おい、タカヤ!おまえここの草抜きしとけ!」
「え、ちょっ、監督?」
「じゃーな!!また明日!!」
「明日って…」
声をかける間もなく榛名はすでに遠ざかり、小さな後ろ姿が見えるばかりだった。去っていく背中にため息をつく。
「なんなんだよ、あいつは・・・」
あれが監督?阿部の尊敬するシニアの監督とはあまりにかけ離れすぎている。
野球部が新設される高校だから監督もメンバーもまったくの未知数。それを承知で博打半分でとびこんだとはいえ、さすがにここでよかったのかと不安になってしまう。しかも目を落とせば、整備されていないグラウンドが追い討ちをかけてくる。
頬をさすような冷たい風が吹いて、さっきまで榛名が投げていたボールが転がってきた。拾い上げると予感のような胸騒ぎが、ざわざわとわきあがってくる。高鳴る鼓動が痛い。
―――うさんくさいヤツだけど、投球はすごかった。
そうだな。あれほどの球が投げられる人なんだから、きっと大丈夫だ。
まずは命じられたとおりに草をぬいて、それからマウンドも作って……一人だと春休み中に終わらないかもしれないから栄口にも声をかけてみよう。
誰もいなくなったグラウンドを見つめて、阿部は深く頭をさげた。
今日から三年間、このグラウンドがオレの居場所だ。