これが恋かと問われれば1
「阿部君は一度、冷静に榛名君を分析する必要があるわね」
ミーティングの最中にいきなり名指しでいわれたモモカンの言葉に阿部はとっさに反応することができなかった。
今日のミーティングでは各自の攻守の弱点を強化する新たな練習メニューを考案をしていたはずだ。
硬式になったばかり、一年生だけの公立ということで、とかく格下に見られがちだった西浦高校野球部も強豪相手との試合数をこなし勝利を積み重ねるうちに、他校からプレースタイルを研究・分析されるようになってきた。実際、そのことに苦しめられた試合もあり、もはや未知数の存在という武器はつかえない。もちろん甲子園をめざすのに、はなからそんな武器をいつまでも使いつづけるつもりもないけれど。
そのため、今日はそれぞれの弱点をあげていたところだったのに、なぜここで、自分がシニアのときバッテリーを組んでいたあの傲慢な男の名前が出てくるのだろう。
名前を聞くだけで、気分がざらざらとイヤな気分になるあの男。
胸の奥からしみだす感情を振り払うように阿部は言った。
「なんでですか」
「その顔が答えよ」
そんなこと言われても、すぐに自分の顔を見ることなどできない。
ただどうやら平生でも「怒ってる?」と聞かれる顔が、いっそう凶悪になっているらしく、隣にいる三橋はキョドっているし(これはいつものことだが)、しかたなく反対隣の水谷を見れば、ぎこちない意味不明の笑顔をかえす始末。
阿部がよけいにイラつきをつのらせていると、さらにモモカンの言葉が続く。
「あのね、阿部君の分析力は私もかってるの。ただ一つ阿部君が冷静な判断をくだせていないのが、武蔵野の榛名君にたいしてなのよねえ。これまでは、たまたま武蔵野とあたってなかったからよかったけど、阿部君が今のままじゃ武蔵野戦が不安だわ。今の武蔵野を攻略するには絶対、榛名君を打ち崩さなきゃいけないからね。だから比較的自由のきく今の時期に、ちゃんと榛名君のこと分析してきてちょうだい。まず、そうね。次の武蔵野の試合を一人で見に行ってくること!」
突然の命令に一瞬言葉をのむも、阿部は勢いよく反論した。
「なんで、そんなっ!だいたいオレはちゃんと冷静に判断できてますよ。あいつの球すじはよく知ってるし、球はたしかに速くてすごいけれど、自分勝手なノーコンのエース。それが榛名です」
「ほらほら、そこがすでに冷静じゃないのよねえ〜」
ほがらかに笑い交じりの声でモモカンがかえす。
「どこがですか!だいたいっ・・」
「・・おい、阿部」
短気な阿部が監督相手につっかかりそうになるのを、花井が穏やかになだめようとした矢先、
「はたから見りゃ、どう見ても冷静じゃねーから言われてんだよ」
ずばっと切り込まれた泉の言葉に、メンバー達の空気が凍りつく。
阿部の険しい表情は、当然そのまま泉にむけられる。
「なんだよ、泉」
三橋や沖ならその場で気絶してしまいそうな阿部の強い視線を
泉は平然とうけとめて、さらに言った。
「冷静だっつーんなら、嫌がらずに試合くらい見てこいよな」
道理がとおった泉の言葉に、阿部は視線をさげて、ため息をついた。
短気な阿部だが、理にかなった忠告をねじまげて争ったりはしない。
「わかったよ。見てくりゃいいんだろ」
開き直りのような阿部の言葉だったが、ともあれ毒舌二人の対決を
ハラハラ見守っていたメンバーたちの緊張がゆるむ。
「い、泉君、凄い」
三橋にいたっては小さく尊敬の言葉をもらす始末だ。
「行ってきますよ。監督。しっかり分析してきます」
あらためて素直に阿部が告げると、モモカンは満足そうに頷いた。
いったん決めればまっすぐに向っていくのが阿部のいいところだ。
「ねえ、阿部君のキャッチの技術はシニアのときのままじゃないでしょ?」
「はい」
「野球についての考え方だって、依然とは変わってきてるよね」
「・・はい」
「人は成長して変っていくものよ。対戦相手のエースとして
捕手の目でしっかり榛名君を見てきてちょうだいね」
「・・・わかりました」
「あー。今日のミーティング、練習よりも疲れたよ〜」
ヤブヘビな言動の多い水谷が、部室からでるなり叫んで大きく伸びをする。
「悪かったな」
のっそりと背後から現れた阿部から、とびきり物騒な低い声をかけられて、
とっさに動きが止まる。
阿部の険しい目つきには言葉と裏腹に謝罪の気持ちの欠片もない。
「おわっ。いやいや、別に阿部のせいで疲れたっていったわけじゃ・・」
慌てて両手を振る水谷に阿部は大きく息をついた。
「じゃあなんなんだよ。自分の克服すべき弱点の多さにか」
「いやいやいや。まあそれもあるけど、
ほら〜でも、これで榛名さんと仲直りできるといいな!」
「別にケンカしてるわけじゃねーよ」
必死にとりつくろうとする水谷の言葉が、さらに阿部の機嫌をそこねているさまに
居たたまれなくなった栄口と花井が声をかけてくる。
「でも、オレも阿部が榛名さんのことちゃんと分析することはいいことだと思うよ」
「そうか〜?」
「うん、オレもそう思う」
「花井もかよ」
「ある意味、お前もまだ中学時代をひきずってるように見えるぜ」
「そんなつもりはねえけどなあ」
穏やかな栄口と、主将としてそれなりに信頼している花井にまで
こういわれてしまっては、さすがの阿部も返す言葉がない。
たしかに榛名というその名前を聞いただけでイラつくが、過去のシニア時代をひきずってなどいない。
だが、このイラつきが捕手として自分の冷静な判断力を狂わせているというなら、
たしかにそれは問題なんだろう。
同じ地区にある武蔵野は、必ず西浦に立ちはだかる敵で、
そして武蔵野にいる榛名を攻略できなければ、おそらく西浦に勝利はない。
悔しいけど、あの男の球の凄さは文字通り身体で知っている。
身体のすくむ剛速球の軌道が目の前に浮かぶと同時に、
あの、人を人とも思わぬような榛名の冷たい視線が頭をよぎって、胸がふさがれるような気分になった。
ああ、そうだ。こんなふうに苦しくなるのがイヤで、
榛名のことは最低の投手だと言い放つことにしたんだった。
そうしてしまえば、こんな胸をえぐるような苦しみを感じずにすむ。
ああ、やっぱりイヤだ。榛名の試合を見に行くなんて。
めずらしく行き止まりの思考回路に道をふさがれて、
さきほどのミーティングから何度目になるかわからないため息をついた。
「あ・・・あべ・・くん」
どうやら先ほどからずっと阿部の様子をうかがっていたらしい三橋が、
おどおどと声をかけてくる。
「なんだよ」
ぶっきらぼうな阿部の言葉に、現在の彼のピッチャーは「うっ・・」
とよろめきながらも、がんばって言葉を続けてきた。
「だ、だいじょう、ぶ、だよ。はるなさんは、い、いい人、だよ」
いい人ってなあ・・・。
お前にとっちゃ世の中、ほとんどの人がいい人なんだろうが。
脱力を感じながら、それでも「ああ」と阿部は答えた。
きっと阿部が榛名に会いにいくことを、
三橋なりに心配しているのだろう、珍しく言葉を続けてきた。
「そ、それにきっと、はるなさんだって、きっと、あべくんのこと、
いいキャッチャーだって思ってるよ。
そ、それは今投げてる俺が、一番、よくわかる、から。
あ、阿部君はすごいキャッチャー、だから。」
「・・・三橋」
どこか論点がずれているような気はするが、阿部は素直に三橋の気持ちが嬉しかった。
投手の三橋からしたって、俺が榛名のことをひきずってるなんて周囲が言っているのを聞けば、
いい気持ちはしないだろう。
ましてや三橋は速球コンプレックスだ。榛名の球を初めて見たときも、グラグラ動揺していた。
ほんとうに阿部にとって三橋と榛名は全然違うのだけど。
三橋のことだから、計り知れない思考回路でぐるぐる悲観的なことを考えているやもしれない。
阿部は一つ息を深くついた。
今後はため息ではなく、自分を落ち着かせるための深呼吸として。
「三橋。お前のほうが榛名なんかよりよっぽどいい投手だよ」
そう告げると、
「え。で、へ。へ」
と現在の彼の投手はへニャっと顔を崩した。
喜んでいるのか照れてるのか、相変わらずよくわかんねー奴だな。
とにかく投手を万全の調子で投げさせるのも、捕手としての自分の務めだ。
うちのエースのためにも、榛名のことをなんとかしよう。
憂鬱な榛名分析という厄介ごとを、投手のための捕手の任務なんだと
阿部は自己暗示のように何回も自分に言い聞かせていた。