これが恋かと問われれば2
重い足取りでやってきた武蔵野戦。
春の大会ではガラガラだったスタンドは、それなり応援でにぎわっている。
さほど重要な試合でもないのに、そこそこの応援がいるということは、
勝利を積み重ねることで、少しずつ野球部にも人気がでてきたのだろう。
まだ練習中のグラウンドにカメラやオペラグラスをむけて騒ぐ女子たちは、
きっと榛名目当にちがいない。
シニアのときも榛名目当てで応援に来る女子は多かった。
ただでさえピッチャーというポジションは目立つ。
しかも榛名の場合は、顔がそこそこ整っているのだから、女子が騒がないわけがない。
性格の悪さなんて知らぬが仏だ。
とはいえ当の本人は野球に夢中で、観客に気づいているふうではなかったけれど。
てゆーか、チームメイトだってろくに見やしねえ、自分のことしか見てないような奴だったからな。
忌々しいシニア時代の榛名の姿を思い出しそうになって、
頭を振り払うと阿部は騒がしそうな場所を避け、スタンドの後ろに陣取った。
試合開始はもうすぐだ。
練習していた選手達が一斉にベンチへと駆け戻っていく。
あいつはどこにいるんだろう、とユニフォーム姿の選手達の中に
榛名の姿を見るともなく探していると、
「タカヤ!」
聞きなれた声が自分の名を呼ぶのが聞こえた。
見れば、榛名は以前の大会で会ったときと同じように、
すぐ近くのフェンスを揺らして阿部の名前を呼んでいる。
なんだって、この人はすぐにオレを見つけるんだ・・。どんな視力してんだよ。
フェンスを揺らすエースの姿に、応援の女子たちがざわめいている。
いっそのこと無視してしまいたい。今回は篠岡もいないことだし。
後ろの席にいるのをいいことに、一瞬目をそらしかけた阿部だったが
そもそも今日ここに自分がやってきた理由を思い出す。
そうだ。今日は逃げちゃいけない。この人を冷静に分析しにきたんだから。
「タカヤ!おい、タカヤ!!」
あいかわらず榛名は周囲の目を気にもせず、尚もフェンスを揺らしながら叫び続けている。
阿部は重たい腰をあげると、階段を下りて榛名のもとへ近づいた。
「ちわっす」
「タカヤ。てめー、オレが呼んでんだから、もっと早く来いよ!」
「すいません」
理不尽な言葉にも、とりあえず大人しく頭をさげておく。
「今日は一人で敵情視察か。オレの球でも見にきたのかよ」
「まあ。そんなとこです」
「ま、見たから打てるってもんじゃねえけどな。オレの球は。
なんせもう、お前にだって捕れねえ球だかんな」
強気な発言はあいかわらずだ。
いっそこいつの爪の垢を三橋に飲ませてみたい。
いやいや、ノーコンまで伝染ったら最悪だ。
「お前、相変わらず細っせーし。痣どころじゃなく、吹っ飛ぶぜ」
こいつの言葉はひたすら不愉快なだけなのに、もっとおぞましいのは、
シニア時代、この言葉を頼もしく感じていた自分がいたことだ。
できることなら記憶を抹殺してしまいたい。
「そうそう。てめー、今日こそ試合が終るまでいろよ」
「・・・・わかりました」
首を振りたかったが、冷静な分析をするためのデータ採取だ。
これも任務、これが捕手の仕事なんだ。
阿部は心の中で呪文のように繰り返す。
そんな阿部の心中はつゆしらず、榛名はちょっと驚いたように目を見開く。
「めずらしく素直じゃねーか。今日は途中で雨が振るかもな」
「そうなったら先に帰ります」
「それでも待っとけ。俺が許可するまで帰るな!」
なんでこうも傲慢なんだ。
あきれてため息がでそうになる。そのとき、
「はーるなー!!お前っ。何やってんだ!」
以前見かけたメガネの捕手が、血相変えてやってくる。
そりゃそうだ。もう試合開始直前だ。きっとあの人も苦労してるんだろうな。
駆け寄ってくる捕手を思わず同情の目で見てしまう。
「わーってるよ!ちっ、うるさい奴がきた。
じゃあな、タカヤ。絶対待ってろよ。命令だぞ!」
ビシッと、阿部を指差して榛名は捕手に走りよっていった。
近づいた捕手が、バシンと榛名の頭を叩いている姿が見えて、
ざまあみろ、と小気味よく感じながらも、
なんだか自分がおいてけぼりをくらったような、おちつかない気分になる。
何で俺があんたに「命令」されなきゃなんねーんだよ。
ざわつく気分を振り払うように、榛名の言葉に心中で言い返して、
阿部は再びもとの席に戻った。
どうやら今日も榛名の登板は4回からのようだ。
阿部は趣味でつけている、他校のデータをまとめたノートの武蔵野第一の頁をパラパラめくる。
今のところ投手の榛名以外には、格別目立つ選手はいないチームだ。
さっきのメガネの捕手の人、秋丸っていうのか。
あらためて自分のデータを読んでみれば、榛名と同学年、しかも同じ中学出身者だった。
そういえば前の大会で見たときも、あの榛名に毅然と注意していた。
見た感じ人柄は温厚そうだったから、きっとあの傲慢な榛名とも
長くうまくやっていけるんだろう。
・・・俺たちはいつも衝突してばかりだったけど。
いや、違う。俺の言葉は榛名に届いてすらいなかった。
シニアのあの試合で、その事実を思い知らされたはずだ。
あいつはチームメイトを道具としか考えていないんだって。
捕手の俺も、ただあの人の球をとるだけの道具の一つだったのだと。
・・そのはずなのに、どうしてあの人は今も俺を見つけると
気軽に声をかけてくるんだろうか。
あの人にとってのオレは、ほんとはいったいなんだったんだろう。
そして、オレにとってあの人はいったいなんなんだろう。
シニアのときに組んでた最低のピッチャー。
ただそれだけのはずなのに。
いまだにあの人のことをひきずっていると周囲からいわれるほど、
あの人のことでイラつかなきゃいけないんだろう。
いまだ答えがみつからない問いをくりかえしていると、
いつの間にか、榛名がマウンドで投げていた。
順調に成長した身体から投げられる球は、たしかに中学時代よりも鋭くはしっている。
そしてその球ですら、榛名の本気の球ではない。
キャッチャーのサインに首を振る回数も少なくなったし、
コントロールも以前よりはよくなっている。
もちろん三橋とは比較にもならないが、高校球児とすれば並から並下といったところだろう。
榛名の球の威力を考えれば、それだけの制球力だけでもじゅんぶんだ。
そういえば、そのせいで、あのクソまずいプロテインを飲まされたんだっけ。
思い出すだけで、胃液がわきあがってきそうになって、
阿部は慌てて持っていたペットボトルで喉を湿らせた。
危なげなく三人から三振をかちとった榛名が、マウンドからベンチに戻っていく。
追いついた野手たちに「ナイピ」と声をかけられて、
はしゃぐようにこたえている姿を見て、ふと違和感をおぼえる。
シニア時代の榛名は、チームメイトからの声援を当然といった無表情で受け流していた。
あんな楽しそうに野球をしている人だっただろうか。
プロを目指し、野球をする自分を大切にしているだけで、
チームメイトなんて目にも入ってないような人だったのに。
自分に触れるなとすらいわんばかりの、鋭い刃のような目で
人が近づくことを拒んでいるようにさえ見えた。
バッテリーを組むようになった阿部ですら、コミュニケーションといえばほとんど口論で。
榛名の機嫌がよいときには、阿部にかまってきたときもあったけど、
それもかなり気まぐれだったから、一方的に振りまわされているだけのようで、
口論になるよりもかえって苦しい気分になった。
自分はあの人にとってただの道具の一つで、そんなあいつはチームにとって最低の投手なのだと
考えるようになってからは、もうそんなふうに心が苦しむこともなくなった。
それなのに、今、チームメイトと楽しそうに笑っている彼を見ると、
忘れていた胸の痛みが、新しい傷を作って蘇ってくる。
もしかして、ただ、シニアの自分は目にもかからない存在だっただけで、
武蔵野の人たちはあの人に選ばれたということなんだろうか・・。
暗い深淵を覗き込みそうな気分になった瞬間、
プオーと響いた応援のラッパの音が、阿部を現実に引き戻した。
なぜかそのとき、先日、自分に告白してくれた女子の笑顔が浮かぶ。
振られた、というのに晴れ晴れとしたあの笑顔。
自分で振っておいてなんだが、なぜか彼女がうらやましくなった。
きっとあの子はもう自分のことを綺麗さっぱり忘れてるだろう。
いまだにシニア時代を考えてモヤモヤしている自分とはえらい違いだ。
自分の気持ちを言葉にしてぶつければ、俺もあんなふうに笑うことができるんだろうか。
そういえば、オレはあの人に自分の気持ちを伝えたことがあっただろうか。
会話といえばいつも投球についての口論か、彼が一方的に喋るだけだった。
あの試合の後だって、掴みかかったけど、それだけだ。
前に三橋にむかって「言わなきゃわかんねえぞ」って言ったけど、
そういうオレだって、あの人にちゃんと自分の気持ちを伝えたことはなかったんだ。
きっとあの人はおれが「最低」といった理由すらわかっちゃいない。
そのことが腹立たしくもあったけど、オレがちゃんと言葉にしなかったから、
伝わらなかったのかもしれない。
自分の気持ちがまっすぐに伝わるわけではないことは、
現在バッテリーを組んでいる投手・三橋で思い知らされている。
そうか、ちゃんと話をすれば何かが変わるかもしれない。
いや、弱気はだめだ。
きっと変わる。変わらなきゃいけねえんだから。
武蔵野の攻撃が終って、再び榛名がマウンドに現れる。
阿部は難解な数学の公式を解くきっかけをつかんだような、軽い手ごたえを感じていた。
試合は4対2で武蔵野の勝利。
2点は先発投手の失点で、当然の如く榛名は無失点だった。
武蔵野と対戦したチームは攻撃タイプの学校だったが、
それでも榛名を打ち崩すことはできなかった。
うちには頼もしい四番の田島がいるが、それでも今のままじゃあ厳しいかもしんねえな。
それでもうちが必ず勝つ。三橋のためにも榛名に負けるわけにはいかねえんだ。
そんなことをぼんやり考えながら、阿部は球場の選手出口が見える場所で所在無く榛名を待っていた。
すると慌しい足音とともに出口から榛名が現れて、左右をきょろきょろする姿が見えた。
なにやってんだ。あの人。
「は・・」
「タカヤ!」
呼びかけようとする前に、すばやく阿部を見つけた榛名が駆け寄ってくる。
「待ってろって言っただろうが!」
「だから待ってるじゃないですか」
「スタンドに居ろよ!また無視して帰っちまったかと思ったじゃねーか!」
「あんた、そんなこと言わなかったじゃないっすか」
「ここで待ってろって言っただろ」
「言ってねーよ。だいたい待ってたんだからいいじゃないっすか」
「よくねーよ。俺をここまで走らせやがって」
「そんなんあんたが勝手に早とちりするからですよ」
「っなにをー。お前、つくづくかわいくねえよな」
「この年でかわいかったら不気味です」
「ああっ。先輩に対して、そのヘラズ口が生意気だっつーの!敬意をあらわすとかできねーのか」
「尊敬できる先輩には敬意をもって接しますよ」
「うそつけ。できねーから一年しかいねえ野球部に行ったんだろ」
「違います」
「じゃあなんで武蔵野に来なかったんだよ」
「・・・。別に理由なんてありません」
「俺の球捕るのが怖くなったんだろー」
「違います」
「ちゃんと見たんだろ。俺の投げるとこ」
「ええ、見てましたよ」
「どーだよ。もうお前には捕れねーだろ」
「捕れますよ」
「いや、捕れねーね!」
「・・・」
だめだ、不毛すぎる。
ずっと続く応酬に自分で嫌気がさしてきた。
いざちゃんと気持ちを伝えてみようと考えたって、今までが今までで。
そうスラスラ自分の思いを言葉にできるはずがなかった。
売り言葉に買い言葉、榛名と会話しているとついついケンカ越しで
表面だけをなぞっだけの言葉の応酬。
畜生、今日はちゃんと会話しようと思ったのに。
他校生の榛名に会って喋る機会など、そうそうない。
だけどそもそもいったい、どうやって切り出せばよいのかわからない。
ーシニアのときのオレのことどう思ってましたか?
唐突すぎるだろ。
ーなんでオレがあんたのこと最低っていってたかわかってますか?
ますます喧嘩うってるみたいだ。
ー武蔵野っていいチームなんですか?
抽象的すぎて伝わるわけねえ〜。
ああでもない、こうでもないと必死に試行錯誤してみる。
突然黙って考えこんでしまった阿部に、つまらなくなった榛名が左手をかざす。
「おいっ。なにぼーっとしてんだよ」
ヒラヒラと目の前で振られた左手は、阿部の記憶の中よりもさらに大きくて、
三橋の細い手とは全然違ったものだった。
つーかあいつが細すぎて、この人がでかすぎるのか。
そんなことを考えて、ふと阿部はひらめいた。
三橋んときみたいに、この手を握れば、この人の何かがわかるかもしれない。
そう考えついた瞬間、無意識に手がのびていた。
宙に浮いている榛名の左手を、そっと捕まえて、両方の手で握り締めてみる。
榛名の手は大きくて厚くて暖かくて、その大きさと体温になぜか安心した。
やっぱり三橋の手とは全然違う。
そうだよな。
この人の手が冷たくなって震えてるとこなんて想像つかねえよ。
そっと指にも触れてみる。
三橋のような変化球のタコはないけれど、それでも指先はゴツゴツと固い、投手の手だ。
そうだ。速球という天賦を与えられたこの人だって、誰よりも努力していた。
自分で自分の練習メニューを厳密に組み立てて、それをどんなときもストイックなほど
完璧に遂行していたっけ。
この人が一人で必死に頑張ってる姿を、オレはシニアの練習中にちゃんと見てたじゃねえか。
野球への思いは誰よりも真剣で、あの頃のオレはその姿に尊敬の念すら抱いていたんだ。
だけど、この人の目はいつもはるか前をむいていて、俺が必死についていっても、
この人の視界に入ることはなかった。
ああ、そうだ。
オレはそれが悔しくて、自分の気持ちが届かなかったことをすべて
この人のせいにしようとしちまったのかもしれない。
もちろんそれでも、あの試合での榛名の態度を許すことはできないけど。
この人がいい投手で、一度は俺がほれ込んだ投手だってことまで
塗りつぶすことはしちゃいけなかったんだ。
オレにオレの野球があるように、この人にはこの人の野球があるんだから。
すうっと青空の隅々まで視界が広がったような不思議な気分だった。
そして今、目の前にいる榛名は記憶の中にある人を射殺すような鋭い目ではなくて、
それどころか、なぜか今は子どものように目と口まで大きく見開いていて、
その顔が可笑しくて阿部は笑った。
「オレ、元希さんのこと、好きでしたよ」
ぎゅっと握った手に力をこめる。
「シニアのとき。あんたはチームのためじゃなく自分のためにしか球を投げない
最低な奴だって思ってたけど。元希さんと俺の野球観が違うってこと、今なら許せます。
あんたは、すごい投手ですよ」
「・・・・・・す・・す・す?」
す・す?・・すごいのことか?
いまさらすごい投手といわれてて照れるような人じゃないだろうに。
なぜか目の前の元希さんの顔色がみるみる赤くなっていく。
握った手まで、燃えるように熱くなってきた。きつく握り締めすぎちゃったかな。
そういや、ほんとに試合はさっき終ったばかりだ。
ユニフォームのままだし、そもそもこの人ちゃんとダウンしてないんじゃないか?
問いかけようとした矢先に「榛名ー」と元希さんを呼ぶ声が近づいてくる。
またあのメガネの捕手、秋丸さんだ。
やっぱりあの人が今は元希さんに振り回されてるんだな。気の毒に。
阿部はそっと同じ捕手の立場として共感する。
榛名の姿が目に入ったのか慌しくこちらへ走ってくる秋丸は、
途中で阿部の姿に気がついたのか、少し驚いたような顔になった。
「すいません。元希さん。試合終ったばかりに来てくれて、ありがとうございました。
それじゃあオレもう失礼します」
そっと手をほどくと阿部は榛名に一礼して、ついでに近づいてきた秋丸にも一礼すると
その場を離れた。帰り際、阿部がふと振り返ると、なぜかいまだに左手を宙にうかせたままで
固まってる榛名を「なにやってんだ」と容赦なく叩いている秋丸の姿が見えた。
やっぱりまだちゃんとダウンしてなかったんだ。また今度会えたら謝ろう。
と自然に次の再会を抵抗なく予感している自分に気づく。
元希さんのことを考えるだけでざわついていた黒い感情が消えている。
うん、そうか。なるほど。
言葉にすると、すっきりするもんなんだな。
告白してくれた女子に、今さらながら感謝の念をおくる。
これで監督やまわりに文句いわれることもなくなるだろう。
三橋も安心して投げられるだろうし、オレも練習に専念できるってもんだ。
存外に単純で天然の男、阿部隆也はシニアの過去をこの場できれいさっぱり洗い流した気分だった。
まさかたった今の自分の行動が新たにとてつもなく厄介な嵐をまきおこしたとは露知らず。