これが恋かと問われれば10


阿部に以前と変わらない日常が戻ってきた。
榛名からの電話もメールもなく、練習後、強引に呼び出されることもない平穏な日々。
それは榛名につきあわされている間、ずっと望んでいたことだったのに、いざ叶ってしまうとどうにも落ち着かず、大切なものを壊してしまったような喪失感に戸惑ってしまう。
そんな不可解な落胆をごまかすのに、厳しい練習はもってこいだった。いつもにもまして部活に没頭しようと、がむしゃらに練習に取り組んでいたのだが、やはりどこかで集中力が欠けていたのだろう。こともあろうにキャッチャーフライを捕ろうとして、額でボールを受けてしまい保健室送りという、野球をはじめた子どもの頃以来の大失態をおかしてしまった。
幸い怪我はたいしたことなく、養護の先生に笑われながら額に絆創膏を貼られ、すぐに練習に戻ったのだが、モモカンから今日は帰るように命じられた。
大丈夫ですと反論しようとした阿部を、モモカンは強い声で制した
「気のない練習しても意味ないよ。私の言ってる意味、阿部君ならよくわかるよね」
モモカンは笑顔をうかべていたが、その言葉に逆らうことなどできなかった。
きっと監督には、ここ数日の阿部が心あらずの状態で練習していることなどお見通しだったのだろう。思わず言葉につまった阿部を見て、言葉を和らげる。
「今日はゆっくりおでこと頭を冷やしてきなさい。明日からは休みたくても休ませてあげないからね!」
「・・うす」
「あらあら、元気がないならオレンジジュースを絞ってあげましょー」
機嫌よく続けられた言葉に、近くにいた花井が血相を変えて飛んできて、今すぐ帰れと有無をいわさず阿部はグラウンドから締め出されてしまった。

「なんなんだよ・・・。ってーな」
まだ手搾りジュースにトラウマかかえてんのか、と金網越しに花井を睨みつけようとすると、どうやらずっと様子を見ていたらしい三橋と目があった。阿部の険しい目つきに怯んで、ふらふらよろける姿にあきれつつ、お前を睨んだわけじゃねえよと手を軽く振る。が、自分に手を振られたとわかっていないのか、三橋はきょろきょろあたりを見回し続けている。その姿に「我慢・我慢・我慢・・・」と心の中で呟きつつ、辛抱強く何度もこっちへ来いと手招くと、おそるおそる阿部のもとにやってきた。
たったそれだけのコミュニケーションにひどく疲れてしまって、肩を落としていると見当はずれに三橋が訊いてくる。
「お、おでこ、痛いの?」
「違うよ。・・・ちょっと疲れただけだ。額はなんともねえよ」
「よかった」
三橋が安堵の息をつく。
「モモカンに追い出されたから、今日は先に帰る。わりいな、間抜けなことして、練習につきあえなくて」
「ううん。いいよ。ゆっくり、休んで」
そう言いながら、わざとらしく大きく視線をはずしては、阿部の顔をちらりと窺い、もじもじしている。その姿に苛立ちながらも、つとめて声を荒げないようにする。
「なんだよ。言いたいことがあればちゃんと言え」
「あの、その、・・・は・・・・・・・・・」
「は?」
止まってしまった言葉を聞き出そうとすると、意味をなさない言語を発して三橋が小さくなってしまう。
「聞き返しただけだろーが!いちいち固まってんじゃねーよ!!」
「ご、ごめっ。あの、は、は、榛名さんと、ちゃんと、連絡とれてる?」
どもりながらの問いかけの中に、予想外の榛名の名前を耳にして、阿部は硬直する。
表情をこわばらせ返答しない阿部の姿に、三橋は慌てふためいた。
「ご、ごめんなさっ!!さっき、阿部君がボールとりそこねたとき、み、水谷くんが、このごろの阿部君は、授業中も携帯をじっと見たりして、ぼんやりしてるって、言ってたから・・き、気になって・・」
・・・・水谷、明日しめる。
水谷への不穏な決意を胸に、ようやく我にかえった阿部はなんでもないことのように軽く告げる。
「連絡してねーよ。つか、もうアイツとはいっさい会わねーから。安心しろ」
「なっ、なんで・・」
「会ってるほうがおかしいだろ。あいつとは昔、一度くんでたってだけなんだし。今のオレのピッチャーはお前なんだからな」
榛名のことを喋るだけで、揺らぎそうになる気持ちをぐっと手を握り締めて押さえ込んだ。
―――そうだ、会ってたことがおかしかったんだ。
自分にも言い聞かせるように言葉をかみしめる。
「・・あの、・・ご、ごめんね、阿部君」
「あ?なんで、お前が謝んだよ」
「いや、その、もしかして、この前オレが騒いだせいで、榛名さんと喧嘩したんじゃ・・・」
「お前のせいじゃねーよ。気にすんな。どっちにしろこうなってたんだ。あいつ、気まぐれだし。それに今は別の学校のピッチャーなんだからな。敵なんだよ」
「そ、それは、違う、よ!」
「はあ?」
めったにない三橋の強い言葉にあっけにとられる。
「ご、ごめんなさ・・」
「べつに怒ったわけじゃねえから、びびんなって。何が違うんだよ」
「あのね。オ、オレ、間違ってた」
「何を」
「オレは、西浦のピッチャーで、阿部君が、オレのキャッチャーで・・・」
「そのとおりじゃねえか。なんも間違ってねえだろ」
「う、うん。で、でもね、それでも修ちゃ・・叶君や、畠君。別々になった三星のみんなも、今でも大切な仲間だ、って思うんだ。・・・中学のことは、もちろん、オレがぜんぶ悪かったんだけど、西浦に入ったときは、三星のこと、思い出すのもつらかった。みんなのこと嫌いじゃないのに、中学のこと考えると真っ暗になった。でも、三星と練習試合して、畠君に、戻って来いって言ってもらえて、オレ、三星で野球やっててよかった、って思えるようになったんだ。あ、阿部君もね、昔、つらいことがあったとしても、榛名さんとのこと、大切にしてあげようよ」
三橋が一生懸命に伝えようとする言葉が、たどたどしくも暖かく柔らかく胸の奥へと広がっていくのを感じて、阿部は目をみはる。
「あのね、今でもほんの少しだけ、三星のみんなと、野球がしたいって思うこと、あるよ。でも、それはいけないことじゃ、ない、よね」
阿部の様子をうかがいながら、三橋が自信なさそうに問いかけてくる。
「・・・ああ・・・そうだな」
穏やかに答えると、緊張がほどけたように三橋はへにゃりと表情をゆるめた。
「だから、阿部君も、榛名さんと野球したいって思っても、いいんだよ。あ、でも今はオレのキャッチャーだから、その、武蔵野に行かれたりしたらもちろん、すごく、困るけど」
「ばーか。行かねーよ」
焦って手をぐるぐる回す姿に苦笑してから、阿部は三橋と真摯に向き合った。
「・・・・ありがとな。・・・この前、榛名に向ってお前がオレに投げるって言ってくれて、すげー嬉しかった」
「へ、へへ」
顔を見合わせて笑みを浮かべていると、花井が三橋を呼ぶ鋭い声が聞こえてくる。
「さっさと練習に戻れ。オレはもう大丈夫だから」
「うん!」


学校を出た阿部は、自宅への道を避けるようにのろのろと自転車を走らせた。
テスト期間でもないのに、日の高い時間に帰宅することなど高校に入って初めてのことだ。そのうえ額にめだつ絆創膏を貼って家に帰れば、必ず家族にどうしたのかと聞かれることだろう。そう考えればまっすぐ家に帰るのは億劫で、かといってほかに行くところもなく、気がつけば榛名と会っていた公園に来てしまった。
榛名と会っていたのはいつも練習後の夜だったから、人気のない静かな場所だと思っていたのに、陽のふりそそぐ公園は、小学生の子どもたちや犬の散歩をする人などで賑やかだ。黒い影でしかなかった木々や遊具が実体をもって現れると、まるで榛名と会っていたことが現実ではなかったような気すらする。
いつも榛名と座っていたベンチに一人で腰をおろして、ため息をつく。
三橋に出会えて、きっともう捕手としての自分は報われている。
別れ際の三橋を思い出すと、不意に涙腺が熱くなってきて、慌てて目頭をおさえた。
不器用だけどひたむきな三橋の言葉はいつもまっすぐ胸に届く。
それなのに・・・。
―――榛名さんと野球をしたい、って思っても、いいんだよ。
素直に頷くことのできた三橋の言葉の中で、なぜかこれだけがひっかかった。
オレは、もう一度元希さんと野球がしたいんだろうか?あの人の球が捕りたいのか?
たしかに榛名の投球は魅力的で、捕手なら誰でも惹かれるだろう。
榛名とバッテリーを組みたい気持ちも確かにある。
でも、それだけじゃなくて。
首を振ると、目を覆っていた手が額に触れ、鈍い痛みが走った。ボールのあたった額に忘れかけていた痛みが舞い戻り、じわじわ神経を苛んで額が熱くなっていく。おさえることのできないむず痒い感覚は、榛名との接触を思い出させる。
うっとおしいとばかり考えていたけれど、ほんとは額へのキスが結構好きだった。
今になって、自分でもばかばかしいかぎりだけれど、いつも安心できて気持ちよかった。
ほんとうにバカだ。
一緒にいて手をつないだり、キスをしたり、そんな接触が気持ちいいなんて、どんな綺麗な恋人同士だ。いつも榛名と会っていた公園のベンチでそんなことを思い出すだなんて、感傷的すぎるにもほどがある。
それでも――
好き、だったんだろうか。
ピッチャーとしてでなく、榛名自身のことを。
榛名にはそれがわかっていたから、自分にああもつきまとっていたんだろうか。だが、なぜだ?榛名は何を考えていたんだろう。そんなことを尋ねようともしなかった。
シニアのときのように、榛名に自分の言葉を受け入れられずあっけなく終わってしまうことが恐いから、いつ終わってもいいと言い聞かせていた。
何を考えてるのかわからない三橋だって、口を開けばちゃんといろんなことを考えていた。もしかしたら榛名も阿部には想像もつかない何かを考えていたんだろうか。

ごそごそとポケットから携帯を取り出して、履歴を眺める。この前まで、イヤというほど目にしていた「榛名元希」の名前は、ずっと後ろのほうに追いやられてしまった。やがてこのまま、履歴から完全に榛名の名前は消えてしまうだろう。
そうすれば、なにもかも元どおりになる。
きっとそれでいいんだ。
榛名のことを考えて、苦しくなったり悲しくなったり泣きそうになるなんてわけのわからないこともなくなる。榛名が何を考えていたかなんてことも、どうでもよくなるだろう。
再会してからの榛名はわからないことばかりだった。
いきなりキスしてきたり、不思議なくらい優しかったり、そして何より別れ際のあの姿。
途方にくれた、まるで阿部の言葉に傷ついたような表情だった。
榛名のあんな顔を見たのは初めてで、背を向けて去る榛名に阿部はどうしていいのかわからなかった。
ただ、雨のせいだったのかもしれない。だが、泣いているようにすら見えた榛名の姿を思い出すと、先ほどから弛んでいた涙腺に、また熱が溜まってきて阿部は顔を伏せた。




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ミハベじゃありませんが、阿部の成長に三橋は欠かせない存在だと思うわけで。
(2008/4/20)