これが恋かと問われれば4
暑くもなく寒くもなく、毎日快晴。絶好の練習日和が続く日々。
この安定した気候のせいなのかどうか、いつも短気な言動で
気弱なピッチャーを怯えさせているわれらがキャッチャーもここ数日大変機嫌がよい。
今日も気持ちよく晴れ渡った青空の下、
練習開始前のグラウンドで珍しく鼻歌まじりにトンボをかけていた。
「阿部、ここのとこ調子よさそうだねえ」
同じくグラウンド整備をしている栄口が、にこにこと声をかけてくる。
「え?そーかあ?」
「うん、いいことあったんだね」
「いや、これといって・・」
阿部が不思議そうに答えていると、
「いやいや、ほんと最近の阿部は機嫌いいって。だって優しーもん!」
突如わりこんできた水谷が感動したように叫ぶ。
「なんだよ。それ」
「だって、今日は数学の宿題何も言わずに見せてくれたし、
この前だって黙って焼きそばパン買ってきてくれたじゃん」
「・・・そんなんいつもしてるだろ」
優しいというにはあまりにもささやかすぎる内容に、阿部が眉をひそめる。
「そりゃしてくれるけど、いつもの阿部なら絶対なんか言うよ。
こんな問題もわかんねえのか、とか、なんでオレがお前のパン買わなきゃなんねえんだ、とか」
「ああ。それ言いそうだな」
水谷の言葉に頷いて、会話に花井が加わった。
「・・・・」
お前らの中でのオレはいったいどんな人間なんだ、とクラスメイト達に掴みかかりたくなる衝動を、
阿部はすんでのところで抑えたが、水谷がさらに煽る。
「ほらー。今だって、いつもの阿部なら、オレをなんだと思ってんだ!
とか言って掴みかかってくるのに、今日は何もしないよー」
「ふざけんな」
さすがに今度は水谷の胸倉をつかもうとする阿部を、花井と栄口がまあまあと宥めて引き離した。
乱れた髪を手で整えながら、水谷がふてくされる。
「なんだよ。せっかくほめてるのにー」
「どこがだよ」
「あ、そういや阿部ってモモカンに言われて、この前、武蔵野の試合見に行ったんだよね。
もしかして、榛名さんと仲直りできたから機嫌いいの?」
水谷の言葉に思わず花井と栄口は気まずげに顔を見合わせる。
それは二人がうすうす勘づいていながらも、口にしなかったことだった。
武蔵野の試合の翌々日、部長と副部長だけが参加したミーティングで、
阿部が出した試合の分析結果を、モモカンが満足げに受け取っていたのを
二人は知っていて。さらに最近の機嫌よさそうな阿部の態度を見ていて、
どうやらモモカンの指令を無事完遂し、それなりに過去を払拭したのだろうと察していたのだが、
西浦きっての良識派の二人は、あえて阿部に言ったりはしなかったのだ。
案の定、水谷の言葉を聞いた阿部は、子どもに尻尾をつかまれた猫のように厭そうな表情になる。
こうなったら仕方ない、栄口は笑顔で話題をちょっとだけずらすことを試みる。
「それはともかく、ほら、阿部、試合はどうだったの?」
「武蔵野が勝ってた。やっぱ今の武蔵野に勝つには、榛名を攻略しなきゃダメだな」
「そうなんだ」
「田島ならなんとかできるかもしんねーけど、いつも田島まかせってのもなんだしな。
まずあの速球対策をどうするかだ。モモカンに出したレポートにも書いといたけど、
ピッチングマシンの性能をあげて・・って・・・なんだよ」
自分の言葉に必要以上に頷く花井と栄口の姿を見て、気味悪そうに阿部が言葉をとめる。
面倒見のよい二人は、今までと違い榛名のことを他校の投手と同じように
冷静に語る阿部の口調を聞いて、どうやらほんとに榛名問題を払拭できたらしい、
と心から喜んでいていたのだが、もちろん阿部にそんなことがわかるわけもない。
「いやいや、よかったな」
「うん、よかったね」
「はあ?なんなんだよ、お前ら」
そこへ水谷がまた、のこのこと地雷を踏みにやってくる。
「そっかー。阿部。榛名さんとちゃんと仲直りできたんだね〜」
「・・水谷、だからオレはケンカも仲直りもしてねーって何回言わせれば・・」
阿部が地を這うような声で告げ、水谷に再びつかみかかりになるのを見て、
とっさに花井が叫ぶ。
「あー、にしても、三橋と田島はおっせーな。おーい泉、あいつら何してんだ」
少し離れて外野のグラウンド整備をしている9組の保護者に問うた。
「ああ、あいつら二人なら、小テストの結果が最悪に最低だったとかで、居残り説教くらってたぜー」
「・・・またかよ。今度の期末も勉強会だな。こりゃ」
かえってきた泉の返事に花井が胃をかかえながらぼやいていると、
タイミングよく、とうの田島の声が遠くから聞こえてきた。
なぜか走りながら手を振り回し、阿部の名を何度も喚いている。
「なんだありゃ?」
「さあ」
阿部と花井が半分あきれながら田島の接近を見守っていると、
あっというまにグラウンドまでやってきて阿部の姿を見つけて騒ぐ。
「阿部〜!!榛名が来てっぞ!」
「は?」
「だから、榛名が来てんだって!校門のとこ!早く行ってやれよ」
何を言ってるんだこいつは、と阿部は眉間に深い皺を寄せる。
なんで、元希さんが?
しかも、ここに来てる?
そんなこと、いくらなんでもありえねえだろ。
白昼夢でも見たんじゃねえか、と阿部が無視を決め込もうとしていると、
様子がわからずに近づいてきた泉が田島に声をかける。
「田島ぁ。三橋は?一緒じゃねえの?」
「あ、忘れてきた」
「お前、忘れてきたって・・・」
「榛名と一緒にいるんじゃねーかな」
その言葉を聞いてたちまち阿部の中にざわざわと黒い影がよぎる。
元希さんが三橋と一緒に?
榛名がここに来ているという突拍子もない出来事はさておいても、
その二人の組み合わせは、ほっといてはいけないような気がする。
「悪ぃ。オレちょっと行って見てくるわ」
主将の花井に一声かけると、返事をもらう間もなく走り出す。
「なあ、榛名連れて来て球、投げさせてー」
背後で能天気に叫ぶ田島の声は無視をした。
猛烈たる勢いで疾風の如く去っていく阿部の背中を見送って、
ああうちのキャッチャーの機嫌のよい日々もこれでおしまいか、
それどころか、またぞろ問題がぶりかえしそうな気配を予感して、
気苦労の多い花井と栄口はそろってため息をついた。
そういえば三橋は抽選会のとき、元希さんと会っていたんだった。
グラウンドから校門へと向う道をひた走りながら、
三橋が「榛名さん、いい人だったよ」と言っていたことを思い出す。
榛名の性格をいやというほど理解している阿部には、
それがお人よしのおめでたい誤解だとわかっている。
とはいえ、三橋は純粋に榛名を尊敬していたようだったし、
挙動不審がイラつくとはいえ基本的には人畜無害な人種だから、
榛名と会って何がどう悪いというわけではないはずだ。
だが、人並み以上に傲慢で自信家の榛名と、
これまた人並みはずれて臆病で気弱な三橋の組み合わせというのが、
どうにも不安で、昔と今、正反対の自分のピッチャーのことを考えて阿部は憂鬱になる。
徐々に校門が見えてきて、眼を凝らせば背の高い目立つ姿をとらえられる。
間違いない。あれはたしかに元希さんだ。
まさかほんとに、こんなとこにいるなんて。この眼で見ても信じられない。
あの人いったい何やってんだ。
元希さん!と叫びそうになって、その隣にいる三橋らしき人影気づく。
イライラ顔の榛名と、いつもにもまして挙動不審な三橋がなにやら二人で会話している。
「三橋!」
榛名の名前を喉元で飲み込んで、とりあえずこの場所で叫びなれている三橋の名を呼ぶ。
二人がいっせいに自分を視線を向けるのを感じた。
そのまま傍まで走っていって、立ち止まると今さらのように息が切れて、呼吸をととのえる。
「あいかわらず、出けー声」
バカにしたような榛名の声を耳にすれば、やっぱり本人なんだとまじまじと
見つめてしまいそうになって、すぐに目をそらした。
なんでこんなとこに来るんだよ。この人は。
「あ、阿部・・くん」
自分と榛名、二人に視線をさまよわせて、
常にもましてキョドってる三橋にやつあたりするようにその手をひっぱった。
「三橋。こんな奴といたら、ノーコンがうつるぞ」
「え・あ・・」
「なーんだよ。そのいいぐさ」
榛名がムッとしたように呟いたけれど、本気で怒っているようではないからそのまま無視をした。
今、三橋の前で榛名と目を合わせてはいけない。
不意打ちで現れたからとはいえ、榛名に動揺している自分の姿は、
ピッチャーの三橋には決して見せてはいけないものだ。
「お前、先にグラウンド行っとけ」
「え、あ、でも阿部君、は、榛名さん、は」
「いいから。先に行ってろ」
「う、ん」
強く言えば、三橋はいつものように大人しく頷いたが、
ちらりと榛名のほうに視線を向けると不安そうに尋ねる。
「あ、阿部君。・・ちゃんと来る、よね」
「当たり前だろ。すぐに行くから、さっさと行け」
三橋のためだけでなく、動揺している自分にも言い聞かせるように断言した。
「・・う、うん」
その言葉に安心したのか、三橋はときおりこちらを振り返りながらも、
とろとろとグラウンドに向っていった。
どうにも榛名のことが気になっている様子だけれど、
グラウンドに行けば、田島や花井たちが上手いことなだめてくれるだろう。
それよりも問題はこっちの男だ。
三橋の背中が完全に消えたのを確認すると、覚悟を決めて振り返る。
「・・で、あんたはいったい何しに来てるんすか」
「タカヤに会いに」
「はあ?」
オレに会いに?
ふてくされたように告げられた言葉の意味が理解できなくて、
間抜けに驚いてしまったら、いきなり怒鳴られた。
「うっせえな。お前に会いに来たっつてんだよ!」
「なんでいきなりキレんすか」
「キれてなんかいねーよ」
その態度、その言葉。どう考えたってキれてるだろうが!
言い返そうとして、遠巻きにこちらを見ている女子たちの姿に気がついてしまった。
榛名を指差しながらなにやら騒いでいる。
この人はでかいだけでも目立つのに、そのうえ人をひきつけるものを持っているから厄介だ。
おまけに今日は他校生の格好のままときた。
まったく、とため息をつく。
「あんだよ」
「元希さん、武蔵野の服のまんまじゃないですか。
いくらなんでも目立ちすぎです」
とりあえず人目に着きにくい場所に連れて行こうと考えて、
放課後で人気の少ない校舎の方へと進んだ。
気づかれないように一瞬ふりかえれば、不満げながらも付いて来る榛名の姿。
自分の学校に榛名がいるという事態の異常さに、感情の整理ができない。
自分に会いに来た、だなんていったい何を考えているんだか。
この前の試合で、せっかく榛名のことを理解しかけていた気持ちが
ぐらりとゆらいでいくのを感じる。
「で、オレにいったい何の用っすか」
校舎と校舎の間の薄暗くひっそりとした通路で立ち止まると、
動揺が顔に出ないよう、表情を意識的にきつく保ってぶっきらぼうに告げた。
「オレも練習あるんすから、さっさと言ってください」
そうだ、とにかく用事をすませてさっさと帰ってもらいたい。
どうにもこうにも、突然現れた榛名にどう接していいかわからない。
「お前、オレよりあんなのがよかったのか」
「は?」
「ま、あのなよなよしたピッチャーなら、
球捕り損ねても身体に傷はつかねえよなあ」
自分と三橋を嘲るような口調に怒りを覚える。
なんだよ。オレに会いに来たって、こんなことのためかよ。
「わざわざ、そんなこと言いに来たんすか。
人んちのピッチャーをバカにしないでください。
どうせあんたのことだから見下してんだろうけど、
あいつはあんたとは全然違う。いい投手ですよ」
「言いなりになるとこがか?お前、リードどおりに投げろってやたらうるさかったもんな」
さも面倒くさかったといわんばかりに、榛名が首を振る姿にますます苛立った。
「あんたには要求どおり投げられるだけのコントロールもなかったじゃないですか」
「なんだよそれ、ケンカ売ってんのか」
「別に。ほんとのこと言っただけです」
「ふーん。お前、あんな弱っちそーなヤツとバッテリー組んで、ほんとに楽しいのかよ」
そう言う榛名はシニアの頃よりさらに大きくなっていて、
背の高さだけじゃなく身体に筋肉が綺麗について、
完成されたスポーツ選手の体になりつつあるのがわかる。
それに比べれば華奢な三橋は、いやオレだってひょろひょろした頼りないものに見えるだろう。
だけど――
「少なくともあんたと組むよりは楽しいです」
そうだ。いくらすごい球を投げることができなくても、
自分を信頼して投げてくれる三橋の球を受けるほうが楽しい。
それに、今のオレのピッチャーは三橋なんだから。
そっけない返事に榛名は一瞬目をぎらつかせたが、
怒ることはなく、かえってきた言葉はむしろ冷めていた。
「あっそ。オレだって、試合で負けるたんびにピーピー泣くような捕手はお断りだけどよ」
はき捨てるように告げられたその言葉を耳にした瞬間、頭の中が真っ赤になった。
たしかに感情のままに目に涙が滲んでしまう自分は、やや涙腺が弱いのだろうと自覚している。
だけど試合で負けたからといって泣くことは滅多にないし、
そしてそんな姿を榛名に見られたのは、ただ一度だけ。
―あの試合のあと。
やっぱりこいつ最低だ。
あのとき、オレは試合に負けて泣いていたわけじゃない。
こいつは、そんなことだってわからない奴なんだ。
ついこの前、手を握ってこの人のことを許した自分がばかばかしい。
だけど、その試合の際、楽しそうに投げていた榛名の姿も同時に思い出すと、
不意にぐらりと視界が真っ黒になった。
・・もしかして、ピーピー泣くような捕手と思われていたから、
この人はオレにちゃんと投げてくれなかったんだろうか。
不意に思い至った結論に、心を塗りつぶすような虚無感を覚えて涙が滲んでくる。
だけどここでまた泣く姿を見せるわけにはいかない。
悔しいし、何より榛名にさらにバカにされてしまう。
とりあえず顔をさげて、涙をくいとめようとしていたら、
「ターカーヤ」
からかうような声がかかり、顔をのぞきこまれそうになって、
表情を見られないようにさらに深く顔を下げた。
唇を噛み、きつく歯を食いしばって体の痛みで涙をくいとめる。
「・・・んだよ、タカヤ。泣いてんのかよ」
「泣いてません!」
榛名のあきれたような声に、とっさに言い返したけど、声が震えるのを止められなかった。
こんなんじゃ、すぐに泣く奴だと嘲られてもしょうがない。
あの頃、怖がらずに捕るってほめられて嬉しかったけど、
だからといってオレが認められていたわけではなかったんだ。
バッテリー組んでレギュラーになれたのも、シニアの中で、球を捕れたのが自分だけだったからで。
言葉も通じない練習台扱いされたまま、バッテリーとしての良い関係を築き上げられなかったのは、
結局榛名の性格だけじゃなく、自分が捕手として信頼されてなかったからなんだ。
そんな考えに陥ってしまえば、目が熱くなり、視界が揺らぐほど涙が湧き上がる。
無言のままの榛名の様子はうかがえないけれど、
これ以上軽蔑される前に、涙をとめて顔をあげなければ。
唇を噛んだまま、心を落ち着かせようと深く息を吸おうとしたそのとき、
「タカヤ」
不意に名を呼ばれて、強い力で榛名に引き寄せられた。
あまりに突然のことで動けず、そのまま広い胸に倒れこんでしまう。
なっ・・。
何を、と問う隙もなく、いきなりぐいっと乱暴に顎に手をかけられ、
顔を思いきり上げさせられた。首筋が引きつれて痛い。
潤んだ視界の先に、自分を見つめる端正な榛名の顔が間近に見えて驚いた。
こんな近くでこの人の顔見るの初めてだ・・・
なんて間の抜けたことを考えていたら、さらに顔が近づいてきて、
「ったく、いつまでも泣いてんじゃねーよ」
あきれたような言葉とともに、そのまま唇をふさがれた。
え。
驚愕のあまり体が反応できなかった。
羽でくすぐるように優しく唇を重ねられてから、
つと離れた榛名に、確認するようにじっと顔を覗き込まれて、
また唇をついばまれる。繰り返し、離れては触れる唇の感触がくすぐったくて、
反射的に首を振ったら、肩を壁に強く押し付けられしまった。
大きな両手で頬と後頭部を包み込むように顔を固定され、さらに深く唇を重ねられる。
触れられた頬や唇や舌から発火したように体の中に熱がこもると、
酸素が足りなくて頭がぼんやりしてくる。
「・・んっ」
どうにかして熱を吐き出したそうとしたら、
知らずにもれた自分の声があまりに甘ったるくて驚いて、
今さらのように我にかえった。
「もときさんっ・やめっ・・」
榛名の頬を両手でひっぱたくようにして引き剥がすと、
爆発しそうな心臓をなだめるために顔を背けて息を吐く。
「いってーな!」
突然の拒絶に不満を浮かべる榛名にかまわず声を張り上げた。
「な、な、な・・なにしてんすか!あんた!!」
「キスだろ」
頬を抑えたままの榛名が平然と答える。
「そういうこと言ってるんじゃありません!」」
「んだよ、タカヤだって気持ちよさそうにしてたくせに、いきなり抵抗すんなよなあ」
「それはっ、びっくりして動けなかっただけです」
「ふーん。やけに長い間驚いてたのな」
からかうような口調に顔が熱くなるのを感じて小さく言い返す。
「あんたが馬鹿力で抑えるからだ・・」
「オレ、そんな力、入れてなかったけど」
榛名は人の悪い笑みを浮かべて阿部を見下ろしている。
なんでこっちが被害者なのに、こんな逃げ出したくなるような気持ちにさせられなきゃならねえんだ!
「・・・・っ。だいたい、なんでっ、こんなことするんですか!あんた頭おかしいんじゃないんすか!」
「んだと、なんでっててめえ、人に告っといてすっとぼけてんじゃねーぞ。
お前、俺のこと好きっていったじゃねえか!」
怒鳴ったら、それ以上の勢いで逆ギレされて唖然とする。
「タカヤ、この前、手握ってそう言っただろ!」
好き、って。
手を握って、って。
この前の試合の後のことか?
「言いました、けど、それとこれとがどうして・・・」
「好きだったらキスくらいするだろうが!」
「はあっ?」
「お前、俺のこと好きなんだろ?」
「え、いや、」
初めてのキスの衝撃と、その相手が榛名だったという混乱がまだ解けない上に、
なぜか逆ギレしている榛名の姿に圧倒されて、うまく言葉が出てこない。
思考が混乱する。
なんでなんだ。オレが好きって言ったからって・・?
そりゃあ、たしかにこの前の試合のあとで、好きっていったけど。
だからって一体なんでこうなるんだ。
三橋に言ったときはこんなことにはならなかったというのに。
そういえば三橋から「オレも好きだ」って言い返されたとき、微妙な気分だったな。
元希さんがオレにこんなことするのはそのせいなんだろうか。
いやいや、でもだからってなんでキスされなきゃなんねーんだ。
「お前、あいかわらず不意打ちに弱いのな。考えすぎだっつーの。
もういい、とにかくつきあってやっからな。喜べ」
あからさまに混乱して考えこんでいる阿部の姿に、あきれたように榛名が告げる。
「は?」
つきあってやるってどこに?
喜べって何を?
「だからもう泣くなよ」
榛名は苦笑するように告げると、阿部の額を指ではじいた。
「・・泣いてなんかいません」
榛名の行動と言葉は未だわからないままだったが、でこピンされた額の痛みと
からかうような言葉に憤りを覚えると、混乱が少しおさまった。
「まあ、そーいうことにしてやるよ。でも今度オレの前で泣いたら犯すからな」
「おかっ・・?」
「それからオレ以外の奴の前で泣いて、無駄に色気振りまくんじゃねーぞ」
・・ダメだ。オレには元希さんが何言ってんのかさっぱりわからねえ。
とりあえず今の自分には処理しきれないと、阿部はいったん思考を手放すことにした。
そもそも榛名が突然学校に現れた動揺と、三橋をバカにされた怒りと、
自分が認められていなかったという絶望と、その後のキスの衝撃で今日は感情が振りきれすぎている。
もうこれで限界だ。
「あの・・オレ、いいかげん練習に行きたいんすけど」
呟くように告げると、あっさり榛名も同意した。
「そうだな。オレもロードワークっつって抜けて来たから、戻らなきゃ。
ああ、そうだ。タカヤ、携帯教えろ」
「え?いやです」
「んだとっ!」
当然のように命じられた言葉に、咄嗟に拒絶すると激怒され、
阿部は言い訳のようにこぼす。
「・・・・何で今さらそんなものが必要なんですか」
「連絡取るからに決まってんだろ。お前オレをいつもここまで来させるつもりか」
きっぱりと断言される。
いつも学校まで榛名がやって来る。
それは阿部の耳に、とても恐ろしい脅迫の言葉として響いた。
「・・・わかりました。じゃあメアド言いますから」
それだけは勘弁して欲しいと、阿部が渋々アドレスを告げようとすると、榛名が叫ぶ。
「あっ、オレ今携帯もってねえや」
「・・・じゃあ、元希さんのを教えてください。後で連絡入れときますから」
「覚えてねえよ。んなもん」
それは確かに、あまりにも榛名らしい返事なのだが、
じゃあどうしろっていうんだよ!と吼えたくなる言葉を飲み込む。
もう今日はこれ以上言い合いする気力もない。
「・・・じゃあダメじゃないですか。ここは縁がなかった、ということで・・」
「しゃあねえな。じゃあ今週の金曜9時に駅の西口のコンビニな。隣が弁当屋のとこ」
阿部の言葉など聞く耳もたぬとばかりに榛名が命じる。
「えっ。なに勝手に決めてるんすか。オレ練習あるんすけど」
「あったりめーだろ。オレだってだよ。だから9時つっただろ。わかったか」
勢いにおされて思わず頷くと、榛名は満足そうに唇を緩め、そのまま阿部の額にキスをした。
「なっ・・」
阿部が反応する前に、榛名はその場から立ち去ってしまう。
「じゃあな、タカヤ!またなー」
機嫌のよさそうな声だけ残して、悠々と消えていく姿を呆然と見送った。
クソっ。なんなんだよ、いったいあいつは!
やっぱりオレにはあの人が何考えてるのかさっぱりわかんねえよ。
榛名に口付けられた額を抑えたまま、阿部は力尽きたように雑草の上にへたり込んだ。