これが恋かと問われれば7


午後からの突然の雨で練習が中止になってしまったある日、阿部と花井と栄口、三橋の四人は大型のスポーツ用品店を訪れた。ミーティングで話題になった新しいトレーニング用品の下見を花井たちとすることになり、そこにグローブのクリームを買いたいという三橋を栄口が誘った。とりとめない会話をしながらたどり着いたその店は、平日で雨のせいか、店の規模が大きいわりに人気が少なかった。
「どうしたの?阿部?」
店内に入ってから、落ち着かない足取りになった阿部に栄口が尋ねる。
「ああ、わりい。オレ、ちょっとションベン行ってくる」
目的の野球用品コーナーに向っている途中、トイレの表示を目にした阿部がそう告げて輪を抜けた。「先に行ってるぞ」と花井が軽く声をかけるのに、軽く手を振って立ち去る阿部の背中を、栄口は気遣わしげに見送った。

店に来るまでの間、阿部はほとんど喋っていない。いや、今日だけではなく、この頃ずっと阿部の様子はおかしい。
あからさまに機嫌が悪いとか、落ち込んでいるのであれば、どうかしたのかと声をかけることもできるのに、そういうわけではない。
それでは何がどうおかしいのかというと、とにかく静かなのだ。
もちろん阿部は元からお喋りでも陽気なタイプの人間でもないけれど、この頃はあまりにも静かすぎる。水谷は「この頃の阿部は優しいをとびこえてホトケ様みたいだよー」と冗談ぽく言っていたけれど、それはあながち的外れでもない。つまり、極端にいえば生きている感じがしないのだ。それも悟りきったというよりは、何もかもどうでもよくなってしまったような。
じつは栄口はこんな阿部の姿を以前にも見たことがあった。
それは高校入学が決まった春休み、まだメンバーが揃ってなくて阿部に誘われて二人だけでグラウンド整備をしていたときのことだ。草むしりしたり、道具をそろえたり、雑事をこなすうちに慌しく毎日が過ぎていったなかで、阿部がマウンドを作っている姿はやけにはっきりと覚えている。きっとこんな例え方はよくないのだろうけど、阿部が一人黙々とマウンドに土を盛っている姿は、まるで墓を作っているようだった。
阿部はどうだか知らないが、栄口は中学時代から阿部のことをよく知っていた。
同じ中学校でシニアに所属していて、関東ベスト16にまですすんだチームのキャッチャー。気にならないはずがない。2年生で先輩のキャッチャーを務めているらしいのに、学内で見かける阿部は、自分と変わらないくらい細くて小さくて、何度見てもその姿に驚かされた。
きっとシニアで組んでいたすごいピッチャーと同じ高校に進むのだろうと思っていたから、自分と同じ西浦を受験しているのを知ったときは心底、意外だった。だが、なぜ榛名と同じ高校に行かなかったのか、その理由は黙ってマウンドに土を盛る阿部の姿を見たら聞けなくなってしまった。
その後、阿部の口からシニア時代の過去を聞いて、阿部が榛名のいる武蔵野に行かなかった理由はわかったが、榛名を「最低の投手」と言い捨てる阿部の姿には、どこか危ういものを感じた。いつも自信たっぷりで強気な阿部が、榛名の前ではひどく脆く見えたからかもしれない。
阿部の中には榛名にたいするしこりが解決されないまま残っていて、それを自分でも気づかぬままに蓋をして、榛名を拒絶することでごまかしてるのだろう。
だから、モモカンが阿部に榛名の試合を見に行けと命じたときはさすがだと感嘆した。チームが強くなるために必要なことを監督はいつもよくわかっている。三橋にとって三星の練習試合が必要だったように、阿部は榛名と向き合うべきだと気づいたに違いない。
そして、練習試合を見に行ったあとの阿部が今までになく清清しい様子になったのを見て、安心していたというのに。
―――また、これだもんなあ。むしろひどくなっているし。
栄口は小さなため息をつく。
阿部の状態が悪化したのは、数ヶ月前、西浦にいきなり榛名がやってきてからだ。やりとりは見ていないが、きっとよくないことが起きたのだろう。
さらに厄介なのはいつもと違う阿部の状態に、三橋までが引きずられていることだ。
今日だって、栄口が三橋を誘ったのは、練習時間以外で阿部と会話ができれば安心するかもしれないと考えたからだった。
臆病なほど他人の反応に敏感な三橋は人の感情を繊細に読みとる。阿部が榛名に複雑なしこりを抱えていることに気づいているのだろう。
三橋は以前ほど自分の投球に卑屈ではなくなったけれど、自信たっぷりの人間ではない。阿部が自分よりすごい投手の榛名を選ぶのではないかと不安になっていたから、それだけはありえないと説得した。そんな疑いは、西浦で勝つことを考えている阿部に失礼ですらあると諭したら、三橋は激しく落ち込んでしまったが、少なくとも阿部が武蔵野に行くことはありえないということは納得してくれた。
だが、阿部の態度がいまだにおかしいままだから、今の三橋は自分に何かできないか悩んでいるようだ。
―――それは、オレも同じなんだけど・・・
きっと阿部の不調は榛名に原因があると推測できても、阿部自身がまったく榛名のことを口にしないし、そもそも榛名は他校の人間だから情報もない。いったい阿部と榛名の関係は、どんなふうにこじれているのかすらわからないから、手の出しようがないのだ。
とりあえず、今が試合の時期じゃなくてよかったと思いつつ、どうにかしてやれないものかと心優しい副キャプテンは、阿部が去ったあとの誰もいない通路を見守った。


用を足したあと、手を洗いながら阿部は鏡にうつった自分の姿に目を留めた。
鏡なんてめったに見ないが、自分でも驚くくらい顔色が冴えない。
こんなんじゃ、三橋に心配すんなとか言えねーよな、とため息をつく。
栄口や花井あたりが言い聞かせてくれたのか、三橋は阿部が武蔵野に行ってしまうのではという、とんでもない誤解はしなくなった。だが、そのかわり阿部を労わるような深い目で見つめてくる。
大丈夫だと声をかけるのもうっとおしくて、その視線に気づかないふりをしているのだが、自分がこんな顔を晒しているんじゃ、どう思われてもしかたねえなと思う。
それにしても、なんだってこの店なんだ・・・・。
鏡から目をはずした阿部は、真っ白な洗面台に視線を落とす。
モモカンのお薦めだというこのスポーツ用品店は、奇遇にも榛名の行きつけの店だった。シニア時代、練習帰りに何度か付き合わされて来たことがある。
花井と栄口の案内にまかせて店に到着した阿部は、店の場所を確認していなかった自分の失敗を呪った。この店だとわかっていたら来るのを断ったのに。だが、今さら引き返すわけにもいかない。
いくら元希さんの行きつけの店っつったって、毎日来てるわけじゃねーんだし。
むしろ会う確率などほとんどない。そう自分に言い聞かせて店内に入ったものの、野球用品のコーナーが近づくと緊張してきて足がこわばり、とっさにトイレを言い訳にして逃げてきてしまった。
自分でも神経質になりすぎていると呆れる。なぜこんなにびくびくしなくちゃならないのか、いっそ理不尽な気すらするが、自分一人ならともかく、西浦のメンバーと一緒にいるときに榛名とは絶対会いたくない。
・・・あいつ、信じられねえこと平気で言うし。
武蔵野メンバーの前で彼女呼ばわりされた記憶はまだ新しくて、思い出しかけただけでもはらわたが煮えくりかえる。それでも拒絶しきれなくて、今もまだずるずる榛名と会い続けている自分がつくづく嫌だ。
「タカヤ」
あの人がオレの名前を呼べば、無視することはできないなんて、どこまで自分はバカなんだろう。
「おい、タカヤ!」
そうだこんなふうに・・・・って。
「え?」
乱暴に名を呼ばれて眉をひそめて振り返れば、そこにひときわ背の高い人影が立ちはだかっていた。
「タカヤ。おい、ぼーっとしてんじゃねえよ」
聞きなれた声に顔を上げればそこに見慣れた、顔だけは端正な男が立っていた。
「すっげー偶然。お前も買い物?」
無邪気に嬉しそうな笑みを浮かべる榛名を見上げて、阿部は言葉もない。
「・・・・・・」
ありえねえ・・・。なんで、よりによってこんなところで鉢合わせしちまうんだ・・。
あまりにものめぐり合わせの悪さに、ろくに祈ったこともない神を恨みたくなる。そんな阿部の絶望的な様子に気づきもしない榛名は嬉しそうに誘う。
「この雨でお前んとこも練習中止か。せっかく会ったんだし、このままどっか行こうぜ」
「いや、オレは部の用事で来てるんで・・・」
「じゃあさっさと用事済ませてこいよ。待っててやっから」
「いつになるかわかりませんから・・・」
「なんでだよ。んなこというならこのまま連れてくぞ」
歯切れの悪い阿部の言葉に苛立ったのか、ふいに榛名に強く腕を捕らえられる。慌てて振りはらった。
「なっ、やめてください。何するんすかっ」
「だって、せっかく会ったってのに、お前、帰っちまいそーだし」
「いや、それは・・・」
「それは、なんだよ?」
至近距離で顔を覗き込むように言われたから、とっさに顔をそらした。壁を背にして、じりじりと出口のほうへと後ずさる。
「だって、今日は会う日じゃなかったじゃないすか」
「だよなー。それなのにこんなとこでばったり出会うなんて、すげーよな!」
「なんで、また日を改めて・・・」
「んでだよ、こんなばったり会えたんだからデートするべきだろ」
「なんでデートなんすか・・・」
気持ち悪い冗談だと阿部は力が抜けそうになる。いったいこの人はどこまでふざければ気が済むのだろう。
「とにかく、オレ、連れが待ってるんで・・・」
榛名とやりとりを重ねる間に、ゆっくりと後ずさっていたから出口はもうすぐそこだった。とりあえず、この場から逃れたい。
そんな願いをこめて出口に目を向けると、細い通路の向こうで、花井と栄口があっけにとられたような表情をして突っ立ってるが見えた。たぶん、阿部を心配して様子を見に来てくれたのだろう。
榛名と一緒にいるところなんて絶対に見られたくなかったのに、こうなったら仕方ない。
つーか、気づいてんなら、ぼーっとしてないでオレを助けろよ!
無言のまま視線で二人に助けを求めるが、唖然としたままの二人は動きそうにない。
「おい、なに逃げようとしてんだよ。てめーは」
視線をあわそうともしない阿部の肩を榛名がきつく掴む。壁に押さえつけるように強く捕らえられて、今度は振りほどこうにも振りほどけない。
「ちょっ・・・離してください」
容赦なく肩を掴んでいる榛名の手に触れると、いつかどこかでこんなことがあったような既視感を抱く。
ああ、あの時だ・・・。
あの試合の後は、自分が榛名の肩を掴んでいたから立場は逆だったけれど。
まるで阿部を敵のような目で睨んで、『離せ』と鋭い声で叫ばれたあの瞬間はきっと永遠に忘れることができない。
一番嫌な記憶を思い出して、ざあっと音を立てて血が引くような気分の悪さを感じたそのとき、阿部に予想だにしなかった助け船が現れた。




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榛名と出会うのはトイレがお約束。
(2008/2/4)