これが恋かと問われれば8
いつまでたっても阿部が帰って来ない。
子どもじゃないのだから気にかけることもないのだが、この頃の阿部はほっとけない雰囲気だし、何より以前、紙がなくてトイレから出られなかったという苦い経験のある栄口は気がかりでしょうがない。どうやら阿部のことが心配なのは花井も同じだったらしく、買い物の精算に向う三橋に一声かけると、二人そろって様子を見に行くことにした。
トイレに近づくと店内が閑散として静かなこともあり、誰かと言い争うような阿部の声が聞こえてくる。
何か揉め事に巻き込まれているのだろうか。
顔を見合わせて慌ててトイレへと続く通路へ進みかけた二人は、出入り口から見えた大きな人影に気づき、そろって足を止めた。
(は、榛名さん?)
(な、なんでこんなとこにいんだ?)
目をひく長身の人物は、阿部がかつて組んでいた投手、榛名元希に違いない。
阿部はその榛名に追い詰められるように向き合っていて、なにやら言い合いを繰り広げていた。
あまりにも予想外な光景にどうすればよいのかわからず、花井と栄口が戸惑っていると、榛名から逃げるように後ずさった阿部と視線が合った。二人に気づいた阿部は、気まずそうに顔をしかめて目を逸らしたが、すぐにあきらめたのか、今度は訴えるような目で二人を睨んでくる。
(・・・ねえ、花井。あれ、オレらに助けに来いってことじゃ・・)
(・・・悪いが、オレには無理だ)
(・・・だよね)
そっと目で会話を交わしていると、乱暴に肩を掴まれた阿部が壁に押しつけられてしまった。離れて見ていても阿部の顔色が青ざめているのがわかる。
さすがにこれはヤバいんじゃないか。仲裁に入るしかないと腹をくくっていると、背後から場違いなほど柔らかい声が聞こえてきた。
「二人とも、どうしたの?あ、阿部君、まだトイレ?」
「あ、みは・・・」
自分たちにもよくわからないこの状況をいかに伝えたものか、と二人が困惑したそのとき、トイレの中の様子が見えたらしい三橋がすかさず飛び出していった。
「え!おいっ、三橋。待てっ!」
花井の制止の声も耳に届かないようで、三橋はまっしぐらに阿部へと駆け寄る。
「は、は、榛名さん。阿部君から、手を、は、離してください」
震える声で一気に告げて、自分に引き寄せるように阿部の左腕にしがみついた。
(うわっ)
(み、三橋!)
花井と栄口は予想外の三橋の大胆な行動に息を呑んだ。阿部も突然現れた三橋に目を丸くしている。
「・・・。お前、誰?」
突然割って入った闖入者に、榛名が不機嫌そうな顔をむける。
「あ、あの、こ、この前、あ、あ、会いま・・」
「何言ってんのか全然わかんねー。おい、馴れ馴れしくタカヤに触ってんじゃねーよ」
阿部の腕に巻きついている手を睨みつける。その眼光の鋭さに三橋が蒼白になるのを見て、投手を守らなければという捕手魂に火がついたのか、ようやく阿部は落ち着きを取り戻した。
「三橋をビビらせないでください」
「タカヤ。そいつの味方すんのかよ。つーか、こいつ誰?」
「・・・うちのピッチャーですよ。あんたこの前会ったでしょうが」
記憶力のなさは毎度のことだが、さすがにあきれてしまう。しばしの間をおいて、あー、と榛名も思い出したようだった。
「で、タカヤ。お前はオレよりそいつがいいってのか」
「そういう問題じゃないでしょう。三橋はうちの大事なエースなんです」
「つまり、オレより大事ってことかよ」
「だから、なんでそうなるんだよ!」
「あ、阿部君は、オレを大事に、してくれますっ!」
どうしようもない阿部と榛名の平行線に三橋が割って入る。
(み、三橋・・・)
まるで我が事のように、三橋の動きを息を詰めて見守っていた栄口と花井が手を震わせた。
近づくのをためらうほど迫力のある榛名に、正面から挑む三橋の無謀さにはある意味感嘆する。するけれど・・・
(いくらなんでも無謀すぎるんじゃ・・・)
「・・・三橋、お前は余計なこと言うな」
阿部も呆気にとられていたのか、数瞬の間をおいてようやく三橋に声をかける。言葉こそいつもどおり強気だが、その声には力がない。
「タカヤ、てめーこそ黙ってろ。おい、三橋。タカヤはお前を大事にしてくれるって?」
この場に不釣合いなほど優しい声で榛名が問いかける。
そんな榛名の口元がひきつりはじめるほどたっぷり時間をかけ、やっとその言葉を理解した三橋は、こくりと頷いた。
「とても、だ、大事にして、くれてます。・・・榛名さんが、すごい投手なのはわかってます。けど。阿部君だって、オ、オレを、投手を、大事にしてくれる、すごいキャッチャーなのに。・・それなのに、榛名さんは、ど、どうして阿部君に、向き合ってあげなかったんですか」
たどたどしく述べながらも、三橋は榛名を見つめて問いかける。
その言葉に虚をつかれた阿部は、こみあげる感情をねじ伏せるように強く下唇を噛んだ。その一方で榛名は間抜けに口を開く。
「はあ?」
「だから、あ、阿部君に投げるのは、オレ、なんです」
震えながら宣言する三橋の肩に阿部が手を置いた。
「三橋、もういいから」
「あ、阿部君」
互いを労わるようなその姿に、榛名が気に食わないとばかりに声を荒げる。
「うっせーな。そんなこたわかってるよ。タカヤは今はニシウラに居んだからよ。オレのキャッチじゃねえっての。ソレとは別で、今、タカヤはオレのことが好きでつきあってんだよ」
「そ、それなら、阿部君はオレのことだって、す、好きって言ってくれました!!」
三橋の声が響いた直後、時間も凍りつく静寂が満ちて、全員の動きがとまった。
言葉を発した三橋だけは関係ないようで、そのまま阿部にすがりつく。
「阿部君、手を握って、言ってくれたよね。オ、オレのこと好きだよって!!あ、あのとき、あの繁みの中で!!!」
「あ、ああ」
三橋に言われるまま、阿部が頷く。
息をのんでいた花井と栄口は、ゆっくりと視線をかわした。
手を握るのはリラックスのためにしていることだ。それはわかる。けど・・・
(・・阿部が、三橋を好き、って何?)
(・・・・繁みの中って・・・)
互いに救いを求めるように視線を向けたが、もちろん力なく首を振ることしかできない。
(三橋を励ますため・・だよね)
(・・・だよな)
(キャッチャーはピッチャーの気持ちを盛り立てるのに、いろいろ言うんでしょ)
(そ、そうだな)
そうであってほしい、いや、そうに違いないよな、と二人で確認しあう。ただ、問題は榛名がそう思ってなさそうなことだ。三橋の言葉でこめかみにくっきりと青筋が浮きあがったことに不幸な二人は気づいてしまった。・・・三橋、もうこれ以上、何も言うな、という願いも虚しく、決定打のように三橋が叫ぶ。
「い、今、阿部くんは、オ、オレの・・・なんです!!」
(三橋、「キャッチャー」が抜けてるーーーー)
三橋の言葉足らずに慣れている二人は心の中ですかさず訂正をいれた。
よりによって、一番大切な言葉を抜かしてしまう三橋の間の悪さに頭を抱える。
案の定、三橋との会話に慣れていない榛名は言葉をそのまま受けとったようだ。端正な口元がひきつるように歪んだ。
「タカヤ」
強く名を呼ぶ声は、栄口たちの足がすくむような怒気に満ちていたが、慣れているのか阿部は平然としている。
「はい?」
「てめー、どーいうつもりだよ」
「・・・どういうって・・」
当惑したように言葉を返すと、苛立った榛名が詰め寄る。
「おまえがとんでもねえキャッチバカってのは知ってたけど、てめー、もしかしたら投手なら誰でもいいんか!!」
「はあ?誰でもいいってどういうことっすか」
「そのまんまだよ。お前、こいつともつきあってんじゃねえのか」
榛名が鋭く三橋を指す。
「なんすかそれ、つきあうとかつきあわないとかじゃねーだろ。こいつは今うちのエースで・・」
「だから、お前、エースだったら誰でもいいんじゃねーのか!!」
「誰でもいいわけねーだろ。三橋にはあんたとは違うよさがあんだよ!」
「やっぱ、二股じゃねーか!!」
「二股じゃねーよ。オレはもうあんたのキャッチじゃねえだろ!」
二人の激しい応酬を目の当たりにして、栄口にはなんとなく阿部が抱え込んでいる問題がわかってしまったような気がした。
なんというか、この一緒にいるのが居たたまれなくなるような雰囲気は・・・。
おそらく隣にいる花井も感じ取ったのだろう。気まずそうに互いにそっと目を伏せた。
(・・・阿部、いったい榛名さんとどんな仲直りの仕方したんだ)
阿部の調子の悪さは自分たちの手に負えるものではなさそうだ、と二人はそろって深くため息をついた。
肩を落として、なおも続いている阿部たちのやりとりを見守っていると、派手な二人の怒声に気づいたのか店員がこちらの様子を窺っている。
さすがにまずい、とついに意を決した花井が仲裁に入りかけたとき、榛名がトイレから足を踏み出した。
「タカヤ、ちょっと来い」
凄みをおびた眼光の榛名が低く命じる。そのただならぬ剣幕に阿部は静かに頷いた。