これが恋かと問われれば9
「元希さん、」
早足で遠ざかる背中を小走りで追った。
引きとめるようにしがみついてきた三橋は、花井と栄口にまかせた。曲がり角の手前で振り返ると、出会った頃のような不安定な眼差しと目が合って、心苦しさに胸が痛む。
三橋にあんな顔をさせるなんて、キャッチャー失格だ。
けれど、有無を言わさず遠ざかる榛名をそのままにしておくこともできない。
三橋たちには明日、謝まればいい。今は立ち去る榛名を追わずにはいられなかった。
後を追って店を出ると、雨は小降りになっているものの、まだ霧のように冷たく空気を濡らしていた。
「元希さん。肩、冷やしますよ」
声を掛けても反応のない背中に傘を差し掛けると、ふいに榛名が立ち止まって振り返る。急な動作についていけず、阿部は榛名の肩にぶつかりそうになってしまって、慌てて身をひいた。驚いて見上げれば、榛名は憤然たる厳しい表情をうかべていて、瞬間、背筋があわ立った。
こんな激高した姿を見るのはシニア時代以来だった。再会してからの榛名は、言動こそ粗雑だがヘラヘラ笑っていることがほとんどだったから、思わず臆してしまいそうになる。どう言葉をかけたものか躊躇い、しばし無言のまま視線を合わせていると、ふいに榛名が顔を逸らして静かな声で問うてきた。
「タカヤ。さっきのほんとかよ」
「さっきのって・・・」
「あのチビにも好きって言ったのかってことに、決まってんだろ!」
いきなり声を荒げて詰め寄ってくるから、とっさに傘を持ってないほうの手で押しとどめた。
「ああ。それは言ったことありますけど。つか、元希さん、なんでそんなに怒ってるんすか?」
「怒るだろうが!!だいたい、繁みの中って、てめー、あいつと何やってたんだよ」
「ただの試合前のコミュニケーションっす」
「繁みの中で手を繋ぐって、どんなコミュニケーションだよ!!!」
「・・・元希さん。考えすぎですよ。あれはちょっと特殊な状況だったから」
「なんなんだよ特殊な状況って」
訝しそうに訊いてくる。
「そんとき三橋のヤツ、試合前にすげー動揺してて、まともなピッチができそうになかったんすよ」
「んだよ。それ。だいたいお前、試合前のオレにそんなこと言ったことねえよな」
「あんたにはそんな言葉かける必要なんてなかったじゃないすか」
むしろ、自分の言葉をはなから邪険にしていたくせに、と阿部の心に影がさした。
「いくらキャッチだからって投手の気分を盛り上げさせるために、試合前に好きとか言うか!?」
「あまり言いませんけど、だから特殊な状況だったんすよ。あんときは」
いつまでも納得しない榛名にだんだん苛立ってくる。阿部だって気の長い性質ではない。
こうなったらいっそ三橋と三星の因縁から説明してやろうか。とヤケのような考えが頭をよぎったが、それこそ榛名にわかってもらえるはずがない。まず、あのめそめそした弱気な思考回路が理解不能だろうし、孤立しても投げ続けていた三橋のマウンドへの執着心は、八十球投げたら自分からさっさとピッチャー交代をする榛名には到底ありえないものだ。
そう、キャッチャーにすら目も向けず、マウンドを降りていく榛名には―――
先ほどよぎった暗い影が、また戻りそうになるのがわかって、無理やり違うことを考えた。
そもそも、なんで榛名はこんなに「好き」という言葉にこだわるんだろうか。自分が三橋に好きだと言ったからって、榛名に怒られる理由がわからない。いったい榛名は自分のことをなんだと思っているのだろう。
―――ほんとうに、わけわかんね・・・
「お前、わけわかんねー」
内心で呟きかけた言葉を奪うようにして榛名が告げた。
その吐き捨てるような声を耳にしたとき、阿部の中で遠慮とか理性といったものが繋ぎとめている何かがふつっと切れた。勢いにまかせて、手にしていた傘も投げ捨てる。
「なんだよそれ!あんたのほうがよっぽどわかんねえだろ!!」
「んだと・・この・・」
榛名が険悪に眉をひそめたが、溢れ出した言葉は止まらなかった。
「今さらオレにつきまとう意味もないのに、いっつも呼び出つけやがって。オレのこと、球場で会うまで忘れてたくせに。オレと違って、思い出すことだってなかったんだろう!こうやって、人をさんざん付き合わせたって、どうせまたすぐにオレのことなんて、どうでもよくなるんだろ!」
「・・・タカヤ?」
感情を爆発させた阿部の姿に、榛名はすっかり怒気を冷まされたようだった。
「あんたはいつもそうやって、好き勝手にすごしてりゃいいさ!八十球しか投げたくなけりゃ、そうすりゃいい。でもオレはもう、そんなあんたには付き合いきれねえんだ。オレじゃあんたのキャッチャーにはなれねえし、あんただってオレじゃなくたっていいはずだ。つか、今はオレのときより楽しそうに秋丸さんたちと野球やってんじゃねえか。なのに、なんで今になってオレに構ったりするんだよ!」
「んだよ、それ」
「そのまんまだよ。もうオレはあんたに振り回されるのはイヤなんだ。だってあんたは、オレの言うことなんて聞いちゃいねえし、だいたい、オレが何を考えているとかどうでもいいんだろ。あんたはオレのことなんて何もわかっちゃいないんだよ!!」
叫ぶだけ叫んで言葉がつきると、急速に理性が戻ってくる。憮然とした面持ちの榛名を前にして、気まずさのあまり阿部は俯いた。
霧雨の音が聞こえそうなほどの沈黙の中、考えるように指を唇に当てていた榛名がさらりと告げた。
「たしかにオレ、お前の言ってること、ほとんどわかんねー」
「・・・でしょうね」
わかってもらえなかった、という失望よりもなぜか安堵した。
自分でもよくわからないままに叫んでしまった。こんな子どもみたいな感情の暴発をまともに受け止められても困るから、いっそわからないでいてくれたほうがましだった。それなのに―――
「つまり、あれだな。お前、オレと一緒にいるのがイヤってことか」
淡々と続けられた言葉がざくりと胸に刺さる。
「じゃあ、お前が手握って、オレのこと好きだったって言ったのはなんだったんだよ」
もうこの話は終わらせたい。しかし、冷静な榛名から逆らえない圧力を感じて、阿部はぎこちなく答える。
「・・・あれは・・・あんたのことずっと許せねえって思ってた、けど、投手としてのあんたは、好きだから・・」
「でも、もうオレと一緒に野球したくねーんだな。で、オレと一緒にいたくもねぇ、と」
確認の言葉に追い詰められて、何も言えなくなる。
いざ榛名に問い直されると、ひどく胸が痛んで肯定することできなかった。
ずっと榛名に振り回されるのがイヤで、だけど口に出せなかった。
それは本当だ。
なのに、さっき感情のままに叫んだ言葉が、なぜか間違っていたように感じるのはなぜなんだろう。
混乱して、自分の望みが何だったのかわからなくなる。けれど、ここで今さら否定するのも潔くない。
もうどうでもいい。
顔を伏せたまま、阿部はゆっくりと頷いた。
いったいどんな怒りをぶつけられるのかと身構えていると、予想に反して榛名は沈黙を守ったままだった。俯いたままのうなじに静かに落ちてくる霧雨が、身を切るようにひどく冷たい。
このままじゃ元希さんも冷えてしまうんじゃないだろうか。
おそるおそる目を上げると、今までに見たこともない表情の榛名がそこにいた。長い前髪からのぞく瞳からは怒りどころか、いっさい感情を読むことができない。やわらかな雨に髪を濡らされて、いつもより幼くすら見えた。
「もとき、さん?」
おずおずと名を呼ぶと、榛名は苦しげに頬を歪めたが、すぐにまた無表情になると、冷淡に言った。
「なら全部オレの勘違いってことか」
「・・・え」
「今まで無理やりつきあわせて悪かったな。じゃあな」
そして、榛名は完全に阿部に興味を失ったように背を向けると、そのまま去っていった。