夏のある日、秋丸は久しぶりに榛名に会った。
学生の自分はともかく、高校卒業後プロの道に進んだ榛名は忙しい。
たまにメールで近況をやりとりしてはいるものの、
この前会ってから半年はとっくに過ぎている。
前回会ったのは1月の正月明けの時期で、
そのとき、榛名が寮を出てマンションを借り、
タカヤを同居させると言い出したときは、
正気の沙汰かと心配したものだ。
しかし、榛名が年下の元キャッチャーを、
それはそれは大変気に入っているということは
いやというほど理解させられていたし、
この友人の性格からして、
言い出せば無理やりだろうとなんだろうと
必ず実行することもわかっていたので、
結局、隆也と円滑に同居できるよう、アドバイスする羽目になったのだ。
隆也のために部屋を借りたことは絶対に言わないで、
キャンプや遠征で不在がちになるからといって留守番役として誘うこと。
それから親を口説き落とすこと。
金なんていらないという榛名に、隆也からは相場に値する
家賃をもらう必要があることも説得した。
そうしないと親御さんも納得しないだろうし、
隆也のような生真面目なタイプは、
ある程度のお金を払わないと
かえって気をつかって関係がまずくなってしまう。
あとは一緒に住めば、面倒見のよい隆也のこと、
身の回りのことに構わない榛名の姿を見てしまえば、
自分が世話をしなければならないという使命感から、
一緒に住むことに抵抗をなくすだろうと考えていたのだが、
その後、榛名からの話を聞くかぎり、二人はうまくいっているようだった。
そして、今日、はじめて二人が住んでいる部屋へと秋丸はやってきた。
榛名はさておき、人並み以上の羞恥心を持ち合わせていそうな
隆也の性格から考えて、居るのがいたたまれなくなる
新婚さんいらっしゃい状態ではないだろうと
予想してはいたが、実際に見れば二人の仲はまるっきりただの先輩後輩、というか、
さながら猛獣と調教師といった代物で、甘さの欠片もない。
それでも榛名は嬉しそうに隆也にじゃれついているし、
そんな榛名を隆也はすっかり慣れた様子であしらっている。
色気どころか素っ気もない榛名に対する隆也の態度を目の当たりにして、
秋丸はふと不審に思う。
なんだ。榛名ってタカヤ君にまだ・・・。
別に友人の性生活のことなど詳しく知りたいわけではないが、
榛名の性格を考えると少しだけ意外な気がした。
「じゃあ、元希さん。俺、今日は自分の部屋で寝ますから」
夏休み中だが夏期特講を受講しているという隆也は、
朝が早いらしい。
自分の空けたグラスと、雑然としたテーブルの上を
手際よくさっと片付けて立ち上がる。
「なんでだよ。いつもどおりベッドで寝りゃあいいだろ。
秋丸のことなんか気にすんなよ」
「バカ言わないでください。
せっかくなんだから秋丸さんと一緒に寝りゃいいじゃないですか。
俺は仕上げておきたいレポートもあるんですよ。
秋丸さん、お先に失礼します。ゆっくりしてってくださいね」
「ああ、ありがと」
拗ねる榛名を見事に無視して、自分にだけ丁寧に会釈をする。
そんな隆也が奥の部屋へと向うのを笑顔で見送った秋丸は、
その姿が消えた途端、眉間に深いしわをよせて榛名に向き直る。
「・・・榛名と俺が一緒に寝るって、何?」
「俺はぜってーイヤだからな。お前、床で寝ろよ」
「言われなくたって俺だってお断りだよ。
というか、なあ、まさかお前、いつもタカヤ君と一緒に寝てるの?」
「ああ。うらやましーだろ」
榛名は素直に自慢げな笑顔を浮かべるが、
隆也の態度を見るかぎり、
二人の関係が未だにできあがっていないことは明白だ。
さきほど抱いた小さな疑問が再び舞い戻ってきて、
奥の部屋にいる隆也には決して聞こえないよう、
秋丸は声を潜めて問いただす。
「それなのに、何もしてないのか」
「そ。俺ってすげーだろ」
「・・・信じられない」
この榛名が隆也と一緒に生活していながら、
まだ手をだしていないことすら不可解だったのに、
その上、一緒に寝ていても何もしてないなんて。
「お前、まさか・・」
秋丸は目の前の友人の顔をまじまじと見つめる。
「なんだよ?」
どんなに言いにくいことでも、やはり友として助言すべきときがある。
秋丸はさらに声を小さくすると、
「・・・榛名。EDは病院でも診察してくれるんだぞ」
「はあ?いーでぃーってなんだ?」
「・・・だから、男として不能に・・」
「っざっけんな!」
容赦のない蹴りが背中に入ったが、秋丸は笑ってかえした。
「だよなあ」
ああよかった。もしや榛名にかぎって、とは思ったけど。
それにしても榛名が隆也を大切にしてることは知ってたが、
まさかここまでだったとは。
二人が一緒に暮らし始めてそろそろ半年だ。
そんな長い間、しかも好きな子と同じベッドに寝てて、
はたして何もせずにいられるもんなんだろうか。
そりゃあ、人間には理性というものがあるけれど、
なんといってもこの榛名だ。
本能には忠実で、
食べるときだって迷うことなく真っ先に
好きなものから手をつけるような男なのだ。
たしかに二人には男同士という障害があるけれど、
榛名はそんなことを気にして手を出すのを躊躇うような
かわいい奴じゃない。
そもそも、そんな繊細な神経の持ち主なら
はじめから隆也と一緒に住んだりなんかしないだろう。
「おい、俺ってそんなにケダモノか」
隆也に何もしていないと聞いた秋丸が
静かに深く考え込んでいる姿をみて、
おもしろくなさそうに榛名が言う。
「いや・・まあ・・でもそんな聖人でもなかっただろ」
「それもそうだな」
はたして自分でも納得したように榛名がうなずく。
「なんかさ、試合前はあんまりやんねえほうがいいんだって」
「え?」
「枯れたじじーどもの話だから、どこまでほんとかわかんねんだけど。
やんねーほうがいい投球ができるらしい」
「ああ、女遊びご法度ってやつね」
言われてみれば、そんな話を聞いたことがあるような気もする。
「俺も今シーズンは二年目で、気合入れてかかんなきゃなんねーし、
それもあっから、ちょっと控えておこうかなって。
いっぺんやると歯止めがきかなくなりそうだしな」
「それはそうだろうねえ」
「とは言っても、押し倒してやろうかってときは
しょちゅうあんだけど。
あいつ信じられねえくらい鈍いし」
「ああ、たしかに。そんな感じ」
あまり隆也のことをよく知らない秋丸から見ても、
彼が恋愛沙汰の機微に疎そうなことはよくわかる。
体育会系にはありがちなタイプなのだが、
とりわけ隆也は徹底していそうだ。
「あんま強引にやって、高校のときみたいに機嫌損ねられたら困るだろ。
あいつ拗ねると最悪だからな。・・・それに」
わざとらしく大げさに首を振った榛名が、ふと黙り込む。
「それに?何?」
「んー。実はなんつーか、こう、タカヤがいつも俺の隣で寝てるってだけで、
けっこー幸せなんだよな。プロになって自由な時間は減ったけど、
家に帰りゃタカヤがいるんだもんな。
一緒に住むようにしといて、ほんとよかったぜ」
「・・・惚気かよ」
あきれながらも、このうえなく満足そうな榛名の表情にほだされて
秋丸は優しいほのぼのとした気分になりかけたのだが、
「ま、やろーと思えばいつでもやれるしな」
あっさりと言葉を翻されて、肩透かしをくらう。
「おいっ」
「冗談だよ。しねーって。タカヤを傷つけたくねえし」
まったくこの男はどこまで本気だかわかりやしない、
秋丸がため息をついていると、
珍しく榛名が真剣な目になり、遠くを見つめて呟いた。
「あいつさー、怒りっぽくて、いつもずけずけ何でも言うくせに、
ほんとに傷ついたときは、何も言わずに黙って離れてくんだぜ。
もう俺はあんなこと繰り返すのはまっぴらなんだよ」
「榛名・・」
中学時代、榛名が荒れていた頃、
シニアでバッテリーをくんでいた二人の間に
何があったのか秋丸は知らない。
しかし、高校で再会した頃の隆也は、
それはもう徹底的に榛名を拒絶していて、
榛名がそんな隆也との関係を修復するのに、
かなりの時間と最大限の労力を費やしていたことは知っている。
そっか。
こいつは、ほんとに大切な相手を見つけたんだなあ。
友人としては、嬉しいような羨ましいような複雑な気分だった。
榛名にこんな穏やかな表情ができるなんて、
荒れていた頃には想像もつかなかったけど、
そういえばそんな時代にもあの子は榛名と一緒にいてくれたんだった。
榛名は傍若無人で奔放な奴だけれど、
今、こうしてプロ野球選手の道をつかんでいるように、
自分が本当に欲しいもののためには、
どこまでもストイックに努力することができる人間だ。
そして今は隆也を二度と傷つけないように、
奥手な思い人の成長を見守っているのだろう。
こいつは昔っから何もかも大きい奴だと思ってはいたけど、
さらにまたでっかくなったんだな。
昔からの友人に、珍しく心の中で手放しの礼賛を送っていると
不意に奥から扉が開く音がして、隆也がリビングに現れた。
「どーしたタカヤ。やっぱり一人で寝るのは寂しいか?」
だらしなくソファにもたれていた榛名が、嬉しそうに起き上がる。
「そんなわけないでしょ。今日はあんたに邪魔されないから、
レポート作成がはかどりますよ」
つっけんどんにかえして、秋丸に向きなおる。
「あの、秋丸さんってO型でしたよね」
「え?ああ、そうだけど」
「俺、AB」
騒ぐ榛名に、あんたは黙っててください、と言いながら
隆也は手に持っていたスプレーを差し出した。
「よければこれ使ってください」
プラスチックのボトルには、
漫画っぽく目がバツになった虫の絵が描かれている。
「何だよ、それ。秋丸だけにかよー。俺にもくれよー」
「あんたは必要ないでしょ。虫も近寄らないんだから」
「虫?」
秋丸が不思議そうに問い返す。
「虫よけです。O型って虫に刺されやすいらしいから」
「ああ、そういやそんなこと言うねえ。
あまり実感したことはないけど」
でも、なんで屋外でもないのに虫よけスプレー?
秋丸の訝しげな表情をくみとった隆也が告げる。
「俺この頃、寝てるとよく虫に刺されてるんですけど、一緒に寝てる元希さんはなんともなくて」
「・・・」
「なんでかなと思ってたら、母親が
O型は虫に刺されやすいからじゃないかって言って、
これ送ってきたんです」
「・・・」
「おいお前、母親にそんな話してんのかー」
あきれたように榛名が言う。
「たまたまですよ。この前電話かかってきて
なんか変わったことないかって聞かれたから。
ああ、そうだ、元希さんによろしくって言ってました」
「おう」
「まあ、こんな感じでたいしたことはないんですけど。
痛くも痒くもないし。すぐに消えるし」
といって、隆也は肘の内側についている赤い小さな跡を
秋丸に見せる。
「・・・」
「秋丸さん?」
黙り込んでしまった秋丸に隆也が怪訝そうな顔をする。
「あ・・いや。俺はあまり虫に刺されないほうだから、
このスプレーは必要ないよ。ありがとう」
そっと、秋丸は手渡されたスプレーを隆也に返した。
「そうですか。んじゃ、秋丸さん、邪魔してすみませんでした」
「なんだよタカヤ、もう行くのか」
「まだレポート終ってないんすよ。
ちょっとこのことだけ思い出したんで」
再び部屋に戻ろうとする隆也を、とっさに秋丸は呼び止める。
「えーと。タカヤ君」
「はい?」
「・・・あの、困ったことがあったら、何でもいいから相談してね」
「はあ」
「てめえ、タカヤをくどいてんじゃねーよ」
坐ったままで秋丸に蹴りをいれた榛名の足を、容赦なく隆也が叩く。
「あんたは何ばかなこと言ってんすか」
「うお、いってーな」
「秋丸さん、ありがとうございます。
この人のこと、手に負えなくなったら相談させてください」
「なんだよ、それ」
「そのまんまです。じゃあ、秋丸さん失礼します」
「うん、またね」
・・・・・・・・・・。
「・・・おい、榛名」
隆也が自分の部屋に入っていったのを確認すると、
つまらなさそうに再びソファに寝転がった榛名の姿を睨みつけ、
穏和な秋丸にしては珍しい低い声でその名を呼ぶ。
「んー?」
「お前、さっきタカヤ君に何もしてないって言ってなかったか」
「してねーよ」
「・・・。俺にはどう見てもあれがキスマークに見えるんだけど」
「ああ、あれな。あいつ母親に言うって信じらんねー」
いくらなんでもそりゃねえよなあ、と気楽に笑っている榛名を
再度強く問いただす。
「で、何もしてないんじゃなかったのか」
「だから、してねーって。タカヤにばれるようなことはな」
「・・・・・」
「んな目で見んなよ。いいじゃねえか、こんくらい。
最後までやってるわけじゃねんだから。
だいたい寝てる奴やってもつまんねーし」
榛名にはまったく悪びれた様子もない。
「あいつさあ、身体も鈍いのかちょっとやそっとじゃ起きねんだよ。
脇くすぐっても平気なんだぜ。ま、俺がこれから開発してやりゃいい話だけどな。
っていうか、これで我慢してる俺って、ほんとすげーだろ?」
「・・・・」
そりゃたしかに途中で我慢するのもすごいことだ、けど。
知らないうちに榛名にあれこれされている隆也のことを考えると、
とても手放しでほめる気にはなれない。
・・・ったくこいつは。
さっきまでの俺の静かなる賛嘆を返せ!
成長したようで、実はまったく変わっていない友人にあきれつつも、
なぜかいくばくかの安心をおぼえて、秋丸は不意に噴き出した。
「なんだよ。あ、てめータカヤにばらすなよ!」
「しないよ。そんなかわいそうなこと」
とはいえ、あの恋愛沙汰に奥手そうな彼が、
ずっと榛名にキスマークをつけられていたことを知ったら
どんな反応をするのか、少し興味はあるけれど。
それを見るのもきっと榛名の特権なんだろう。
悪いねえ、タカヤくん。これからもがんばってね。
相談にのるくらいのことはできるから。
榛名はこういう奴で、いつだって自分ルールで突っ走ってるけど、
君のことをとても大切にしているのは本当で。
それにきっと、君ならこいつと、いい勝負ができるって思うんだ。