・・なんでこんなことになってしまったんだろう。
阿部はまだなじみのない、よそよそしい部屋の中で、
使い慣れた自分の衣類や、データ帳、CDといった
身の回りの物が詰められた段ボール箱を解いていることに、
おさまりの悪い既視感のような奇妙な感覚を味わいながら、
ここ最近でもう幾度目になるかわからない問いを呟いた。
めでたくも第一志望の東京の大学に合格した自分は、
この春からこじんまりとしたアパートででも
一人暮らしを満喫するはずだったのに。
なぜか今、こうして荷物を解いている部屋は
こんなのありえないだろう、というくらいの豪華なマンションの一室で。
おまけに一人暮らしではなく同居生活。
しかも相手は今やプロになったあの自分勝手で傲慢なピッチャーだなんて。
なんでこんなことになったのか・・ことのはじまりの電話が鳴ったのは、
めでたい気分も冷めやらぬ合格発表の翌日のこと。
それは、キャンプを終えて東京に戻ってきている榛名からの久しぶりの電話だった。
阿部は受験前だったし、榛名もキャンプ真っ最中だったから、
ときおり近況を伝える短いメールのやりとりこそあったものの、
声を聞くのは2ヶ月ぶりくらいのことで。
合格したことをメールで報告したから、電話してきたのだろうかと思えば、
榛名はお祝いの言葉もそこそこに、いきなりこう切り出してきたのだ。
「で、タカヤ、いつ引っ越すんだ?」
「いつって、部屋探すのもこれからなんで、そこまで決まってないすけど」
なんでそんなこと知りたがるんだろう、と訝りつつも答えると、
たちまち不機嫌そうな声が返ってくる。
「なんで部屋探すんだよ。タカヤ、俺んとこ来るって言っただろ」
「俺んとこって・・元希さん、寮でしょ」
「出た」
「出たって寮をですか?なんでですか?」
「まあ、いろいろ。飯が口にあわねえし」
「そんな、飯が口に合わないって、元希さん一人暮らしして自分で飯作れるんですか」
「作れねえ。だから、タカヤが作ってくれ」
「は?」
いったい何をいいだすのだろう、この人は。
なんか今とんでもないことを言わなかったか。
なんで、俺が。
どうやって元希さんの食事の支度をするんだ。
眉間にこれ以上ないくらい深い皺を刻んで、電話を睨んでいると
当然といったような榛名の声が聞こえてきた。
「タカヤ、一緒に住んでくれるんだろ」
「何の冗談ですか」
「冗談じゃねえよ。てめえ、この前はいいっつったじゃねえか!」
「そんなこと言ってません」
ふざけんな、と受話器越しに騒ぐ榛名の声を聞き流しつつ、
念のために記憶をたどってみると、そういえば2ヶ月前の最後の電話で、
「タカヤ受かったら東京に出てくるんだろ、したらオレの部屋に住めよな」
と言われたことがあったような。
そのときは自分も試験直前であまり余裕がなくて、
そもそもあんた寮でしょう、どうやったら一緒に住めるんですか、
とわかりきった訂正をいれるのも面倒だったので、
はいはい。それもいいですね、なんて適当に返事をしてしまったのだが・・。
まさか榛名が寮を出て本気で誘っていただなんて。
自分のうかつな返答をどうやってごまかしたものか懸命に考えていると、
長い無言を何と感じ取ったのか、榛名がさらにつけくわえる。
「まあ、飯作ってくれってのはともかく、
俺、留守が多いから留守番代わりに住んでほしいんだけど」
「留守番・・ですか」
どうもとってつけたような言い方なのが疑わしかったけれど、
プロ野球選手の榛名は、遠征やキャンプなどでほぼ一年中、
日本全国をとびまわる生活だから、実際に家を空けることが多いのは確かだ。
・・だったらなんでわざわざ寮を出るんだよ。
心の中で突っ込みながらも、そういう事情を考慮にいれれば、
もしも榛名の部屋で暮らすことになったとしても、
ほぼ一人暮らしとかわらないかもしれない。
・・・いやいやいや、でもだからって、いつも居ないわけじゃないんだし。
ふってわいたような榛名の部屋で一緒に住むという提案に、
どうしても激しい抵抗を感じざるをえない阿部は、
「えー、とりあえず考えさせてください」
と曖昧に言葉を濁した。
「何を考えんだよ」
「いや、まあ、ほら、万が一、仮にですよ。元希さんの部屋で暮らすとしても
親に説明とかいろいろしなくちゃいけないんで」
「んなもんが、いんのかよ」
「必要ですよ。そもそも親に駄目だって言われたら無理ですから」
そう答えつつ、なんとなく自分の親なら駄目だと言いそうにないなと思ったが、
そんな家庭事情の詳細が榛名にわかるはずがないだろう。
親には言わず、さっさ下宿先を見つけてしまい、
あとから適当にごまかせばいいと心の中で企んだ。
「ふーん。やっぱりそういうもんなのか。秋丸の奴すげーな」
納得したように受話器の向こうで呟いた榛名の声は、なぜかやけに機嫌がいい。
「?秋丸さんがどうかしたんですか?」
「いやいや。なんでもねえ。んじゃ親と話せ。安心しろ。絶対賛成してくれっから」
「・・・なんでそんなん元希さんにわかるんすか」
「タカヤにもすぐわかるって。で、いつ引っ越すか決めて連絡してこい。じゃあな」
「え、だから・・」
あんたと一緒に住むとは決まってない、という阿部の言葉を伝えきる前に、
榛名からの電話は一方的に途切れてしまう。
絶対、こんな奴なんかと一緒に住んでたまるか!
虚しい音を響かせる電話を握りしめて、阿部は新たに決意を固くしたのだが、
その後すぐに、榛名の言葉の意味を思い知らされたのだった。
翌朝、進路も決定し卒業式を控えただけの阿部は、
今までにないのんびりとした朝食の場で両親に、
東京での下宿探しの話をきりだした。
「ほんとよかったわよね」
その話をした途端、母親がニコニコと笑顔でかえしてきて、
なぜかしらなんとも嫌な気配を感じ取る。
案の定、母親は笑顔のままでとんでもない言葉を続けてきた。
「タカは元希くんのお部屋に住ませてもらうことになったんでしょ」
「え!」
「元希くん、寮をでて一人暮らしするけど、遠征なんかでいないことが
多いから留守番役が必要なんですってね。
元希くんのお母さんからまで、よろしくお願いしますってご挨拶があったのよ。
こっちからお礼言わなきゃいけないくらいなのに。
やっぱり親としては子どもが一人きりでいるより、
誰かと一緒にいるほうが安心なのよねえ。
住むトコ探す手間も省けて、ほんとよかったわね、タカ」
唖然として返す言葉もなく阿部が固まっていると、もっともらしく父親が言い添える。
「元希くんはプロなんだから、くれぐれも迷惑にならないようにしろよ」
「兄ちゃん、あの元希さんと一緒に暮らすの?すっげー!!」
さらにこの話を今、初めて知ったらしい弟が興奮して叫び、
純粋に感動したような瞳で見つめられ、動揺した阿部にいったい何がいえようか。
まさに自分の配球がすべて読まれて、立て続けに連打を浴びたような気分。
ちょっと待て、いつの間にこんな話になってんだ!
とにかく落ち着け、俺。と慌てて状況整理しようと試みるが、
自分が榛名の部屋に住む話をとっくに両親が知っていること、
そして、すっかりその話に乗り気になってしまっているという事実に
どう対応してよいかわからない。
黙り込んだ息子にむかって、母親が戒めるように言葉を続けてきた。
「だいたいタカったら何もいわないんだもの。こういうことはちゃんと早く言ってよね。
元希くんに言われて母さんびっくりしちゃったわ」
そりゃそうだろ。俺だって今びっくりしてんだよ!
「それにしても、元希くんシニアの頃からかっこよかったけど、
ほんといい男になったわよねえー」
そういえばシニアの頃から、母親は元希さんを気に入っていたのだった。
きっとあのどうしようもないバカっぽいところが母性本能をくすぐるんだろう。
ダメだ、母親は元希さん派だ、とすがるような目で父親を見れば、
特に何も言うことはないといった様子で、新聞を読みながらお茶を飲んでいる。
頼れねえ・・・。
野球好きな父親も、プロ野球選手としての榛名を高く評価しているし、
なんだかんだいって阿部家では大概のことの決定権を母親が握っているから、
よほどのことがなければ父親が反対するはずがない。
弟は弟で、「兄ちゃんの部屋、オレも遊びに行っていいのかなあ」
なんてあいかわらず瞳をキラキラさせていて、
「いいわよ。シュンちゃん。お母さんといっしょに行きましょうね」と
母親と二人で盛り上がっている。
満塁ツースリー、どこにも逃げ場が見つけられない状況で、
それでもなんとかしなければ、このままじゃ元希さんの思うがままだ、
と必死に阿部が打開策を練っていると、母親が決定的な追加点を叩き込んできた。
「家賃も、生活費込みでいいんですって。
東京だったら部屋代だけでもかなりかかるんじゃないかって心配してたのよ。
保証金も必要ないって言ってくれたし、家具や家電製品も揃ってるっていうから、
タカは荷物を送るだけでいいの。
大学の入学金と授業料だけでもかなりの出費だったから、ほんとに助かったわ」
スポンサーの親に金銭面のことを告げられれば、
しょせん被扶養者身分の学生である自分に、何を言うことができるだろうか。
完全に打ちのめされて、もはや阿部は目の前の朝食に手をだす気力もない。
なんなんだよ、これ。あの人にしてはやけに手際がよすぎやしないか。
野球以外に関しては考えなしの行き当たりばったりの榛名が、
同居話を親から固めているという用意周到さに薄気味悪さすら感じてしまう。
実はこれには秋丸が榛名に堅実なアドバイスしたという裏があったのだが、
そんなこと阿部にわかるわけもない。
こうしてまったくろくな抵抗も出来ないまま、
阿部にとってははなはだ不本意な流れに流されて、
榛名との同居は両親公認の確定的なものとなってしまったのだった。
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