そして今日、阿部は榛名の住むマンションへと引越してきた。
引越しと言っても、自分の身の回りの荷物を送るだけでよかったから、
とくに人に頼る必要もなく、一人でマンションにやってきただけ。
大理石の敷き詰められたエントランスに立てば、
一度下見に来たときから感じていたことだが、
やはり普通の大学生が暮らすようなマンションではない。
そりゃあ榛名は腐っても人気のあるプロ野球選手だから
それなりにプライバシーが確保されるマンションを選ぶと
自然とこうなってしまうのはわかるけれど、
一緒に下見にやってきた母親だって唖然としていたくらいだ。
・・こんなとこでなじんで生活していけるのか、俺。
ため息をつきながらも、あらかじめ榛名から預かっていた合鍵で
エントランスを抜け、部屋に入れば、
誰も居ない室内ははがらんどうとして、生活感がまったくない。
たぶん、榛名も寮を出てからすぐにキャンプに行ったりしていて、
ほとんどこの部屋で暮らしてなどいないのだろう。
なまじ広い上に、真新しい家電類だけがそろっているのが、
ショールームのようで余計に寒々しい。
今日、榛名は夕方くらいには帰ってくると聞いている。
とりあえず戻ってくるまでは荷物の整理をしていようと、
自分用にもらった部屋に閉じこもって、
こうしてため息をつきながら、届いた段ボールを開けている。
そうしながら、いまだ納得できない気持ちをなだめるために、
これまでの経緯をたどってみても、やはりなんでこうなったのかがわからない。
ただ、いつになく用意周到な榛名に嵌められた感が拭えなくて、すっきりしないのだ。
榛名が声をかければ、留守番役を引き受ける人間なんて他にもいるだろうに、
なんでここまでして自分を巻き込むのだろうか。
・・どうせ、元希さんのことだからたんなる気まぐれなんだろうけど。
シニア時代の確執がなくなったとはいえ、阿部にとっての榛名は
今でも不可解な部分が多すぎる存在で、これからの生活を思えば、
はたしてこんなことで上手くやっていけるんだろうかと憂鬱になる。
ぼんやり回想にふけっているうちに、ふと気がつけば、
真新しいカーテンの隙間から垣間見える外の色は濃い夕闇で、
いつのまにか部屋の中はすっかり薄暗くなってしまっている。
慌てて電気をつけようとしていると、玄関から人の気配がした。
もしかして榛名が帰ってきたのだろうか。
いちおう出迎えに行くべきかな、部屋を出てリビングを抜けると
廊下のつきあたりに見える玄関の扉が開いて、榛名の姿が現れた。
「 」
声をかけようとして、はたと迷う。
・・・なんて声をかけよう。
いつもは、うす、とかお久しぶりっすと、無意識に挨拶しているのだが
これから一緒に暮らすことになるこの部屋でそんなふうに言うのは、
なんだか違うような気がする。どう言ったものかと考えていると、
廊下で手持ち無沙汰に立ちつくす阿部の姿を発見した榛名が、
「お、ただいまー」
しごく当然のように声をかけてきたので、躊躇しつつも言葉を返した。
「・・おかえりなさい」
なんでだろう、なんだかとても気恥ずかしいような気がするのは・・。
これじゃあまるで・・・いやいや気持ちの悪いことを考えんな。
頭の中に思い浮かびそうになった単語を抹殺すべく必死に追い払っていると、
阿部の返事を聞いた榛名が、機嫌よさそうに笑いながら近づいてくる。
「ん。いーなあ。俺たち新婚ふーふみたいだな」
「気持ち悪いこと言うな!」
たった今、自分が打ち消そうとしていた言葉をあっけなく榛名に言われてしまって、
思わず蹴りを入れる。
「んだよ。照れんなって」
「照れてません!」
怒る阿部を軽くかわしながら榛名は奥のリビングへと進んでいく。
「で、どーだよ。俺たちの新居は?」
「元希さんの部屋、でしょ。広いですね」
何が俺たちの新居だよ。ヘンな言い方すんな。
さっきの新婚発言に、まだ苛立ちつつ阿部がぶっきらぼうに答える。
「ちゃんと荷物入れたんか?」
「今、部屋で荷解き中です」
「そっか。お前、もう飯食った?」
「まだです」
「んじゃ、今日は引越ソバでも食いに行こうか」
奢ってやっから、と機嫌よさげに告げる榛名にむかって、
同居が決まってから、ずっと気になっていたことの一つを問いかける。
「元希さん・・」
「なんだ?」
「俺、飯ってそんなちゃんと作れないんすけど・・」
「それがなんだよ」
「前に、飯つくれって言ったじゃないですか。
でも、俺、毎日栄養管理の行き届いた献立なんて作れませんよ」
「あー、それな。気にすんな」
「気にすんなって・・」
いつも外食するわけにもいかないし、何より榛名はプロのスポーツ選手として
何でも食べていればいい、というわけではないはずだ。
「栄養士に献立考えてもらえるし、それを作ってもらえばいいだろ」
「ああ」
榛名は何も考えていなかったわけではないらしく、何でもないことのように答える。
なんだかんだいって、自己管理には厳しい榛名なのだから、当然なのかもしれないが。
「じゃあ、俺、ほんとに留守番だけでいいんすか?」
「そ。んだよ。そんなこと気にしてたんか」
「まあ、ちょっと」
「んじゃ問題解決だな。さっさと飯食いに行こうぜ。腹減った」
そーば。そーば。と歌うように先に進んでいく榛名の背中を慌てて追った。
いつも自分が悩んでいることの大半は、榛名にかかるとどうでもよいことなのだ。
同居が決まってからというもの、どうしたものかと考えていた食事の問題が
あっさり解決したことは喜ぶべきことだけど、こんな自分がほんとに
榛名と上手くやっていけるんだろうか、と再び不安が蘇ってきて、そっと嘆息した。
「元希さん、俺もう寝ますね」
夕食から帰って風呂に入った阿部は、引越初日で疲れたせいか常よりも
早い時間に睡魔を感じて、部屋に向おうとしているところを榛名に呼び止められた。
「タカヤ、自分の部屋で寝んの?あの部屋狭いだろ。ここで寝ろよ」
榛名が指差したのは、リビングに面した部屋においてある大きなベッドだった。
やけに大きなベッドだな、と最初見たときには驚いたくらいで、
身体の大きい榛名がくつろぐにはこれくらいの大きさが必要なんだろうと
勝手に納得していたのだが。
「このベッドですか?だって元希さんがここで寝るんじゃないんすか」
「ああ。だから一緒に寝ればいいだろ」
「いやです」
きっぱりと断った。
何が悲しくて大の男が二人、ベッドで一緒に寝なくちゃならないんだ。
「なんでだよ。タカヤだって布団いちいち敷くのめんどくせーだろ」
「まあ、そりゃあ面倒ですけど」
「このベッドでかいから、二人で寝ても大丈夫だって」
「いや、でもそういう問題じゃないんじゃ・・・元希さんだって寝ずらいでしょ」
「そんな遠慮すんなって、俺は気になんねーよ」
「そうはいっても・・」
「ざこねみたいなもんだろ。慣れてるし」
「・・・そういうもんすかね」
「そうだよ」
やっぱりどこか違うような気もするけれど、強く断言されるとそうなんだろうか、
という気にもなってきてしまう。
実家ではベッドで寝ていたから、毎日布団を準備するのはちょっと面倒だと感じていたのは確かだし。
それに自分は寝れば熟睡してしまうから、隣に人が居てもまったく気にならない。
実際、今までの合宿でどんな狭い部屋でぎゅうぎゅうになっても
眠れなかったことなどほとんどないくらいだ。
・・けど。
「やっぱりやめときます」
「なんでだよ」
「だって、元希さんの寝相、最悪じゃないすか」
「なんでお前がそんなこと知ってんだよ」
「あんたシニアの合宿のとき、俺を抱き枕にしたでしょ。
あんとき眠れなくて最悪だったんです」
シニア時代の憂鬱な思い出に、阿部は思わず首を振る。
「あーそんなこと・・・・あったっけかなあ。お前ほんとに記憶力いいなあ」
「元希さんがなさすぎなんです」
「だいたいそれ中学んときの話だろ。今はそんなことねーよ」
「ほんとですかね」
「んじゃ、ためしに一緒に寝てみろよ。大丈夫だから」
「・・・はあ」
なんだかまたしても上手く嵌められた気もしないではないが、
別に榛名が自分と一緒に寝るために画策する理由もないはずだ。
布団敷くのが面倒だろうと、珍しく榛名が親切に言ってくれているのに、
無下に断るのも悪いか、と結局阿部は一緒に寝ることを承諾した。
んじゃ寝るぞ、と榛名が寝室の電気を消すと、ベッドサイドに置いたライトの
オレンジ色の暖かい明かりだけがぼんやりと部屋を包む。
「なーんか初夜みたいだな。なあ、タカヤ。三つ指ついて挨拶してみろよ」
このバカはどうしてそんなアホなことばかり知ってんだ。
「・・俺、やっぱ部屋で寝ます」
本気で部屋から出て行こうとすると腕を強く掴まれた。
「じょーだんだろ。すぐ怒んなよなあ」
「あんたがヘンなことばっかりいうからです」
睨みながらも、おとなしくベッドに入ると、まだ新しいからかそれとも品質がよいのか、
柔らかすぎず固過ぎずスプリングがほどよく効いていて心地よかった。
それにかなり幅が広いため、隣にいる榛名とまったく体が触れることもない。
これならたしかに一緒に寝ても全然気にならないな。
ただ、ざこねといっても布団と違いベッドだとスプリングの振動で
榛名の動きが伝わってくるのが気になるけれど、まあ許容範囲だ。
それよりも・・と阿部は隣に寝転んでいる榛名に声をかける。
「・・あの、元希さん」
「なんだ?」
「せめて上掛けは別にしませんか」
「なんで?」
「なんでって。なんとなくですけど」
いくら離れて寝ていても、上掛けが一緒だといやでも隣にいる榛名の存在を
感じずにはいられないのが、ちょっと落ち着かない。
「一緒でいいだろ。そのほうがあったかいし」
あったかいって、俺は猫か。人をなんだと思ってんだ。
たしかに3月の夜の空気は、冬の名残で冷え冷えとしているから、
隣の体温が気持ちいいのも確かだけれど。
「寒いんならエアコンつけましょうか」
「喉が痛くなるからイヤだ」
「じゃあ加湿器もつければ・・」
「うるさくて眠れねえ」
どうあっても自分を湯たんぽ代わりにしたいらしい、
これから一緒に寝ることになるとしても、暖かい季節になるまでのちょっとの我慢だ。
阿部はあきらめることにした。
「・・・わかりました。もういいです。・・それから」
「んだよ」
「ベタベタ触んのやめてくれませんか。邪魔なんすけど」
さきほどから無遠慮に、自分の髪や耳に触れてくる榛名の手を追い払った。
「いや、つい、隣にタカヤがいるから」
「どういう理由ですか」
「そのまんま。なあ、ターカーヤ」
「元希さん、重っ・・・」
はてにはふざけて自分の上にのしかかってくる榛名の顔をあきれ果てて下から睨みつけた。
いい年したプロ野球選手がプロレスごっこかよ。
あんたは、修学旅行の子どもか。
「元希さん、あんたマジ重いんすから、さっさとどいてくださいよっ」
ため息まじりに言って、覆いかぶさる榛名の体から逃れようと試みても、
鍛えられた体はビクともしやしない。それどころかむしろきつく抱きしめられて、余計に苦しくなる。
「ふ、ざけんなって」
手足をバタバタさせてもがいていると、阿部を見下ろしていた榛名が低い声で耳元に囁いてくる。
「なあ、タカヤ」
「はい?」
「お前、俺にこんなことされても、何も感じねえの?」
そうして、整った顔をさらに近づけてまじまじと覗き込んでくる。
・・顔、近すぎるだろ、いくらなんでも。
長い睫まで意識できるくらいの距離に、心臓の鼓動が早くなるのを感じて、とっさに目をそらした。
まさか、ドキドキします、なんて言えるわけもないし、
それにふざけた行動をとっているわりに、間近に迫った榛名の目はめったにないほど
真剣に自分を見つめていたから、逃げ出したくなるような気持ちを懸命にこらえ、
阿部はまじめに考えて答えた。
「・・・そうですね。なんか不思議な感じです。
俺、高校入学したときは元希さんのことマジ大っキライで、
あんたみたいな最低の投手、二度と顔もみたくないって思ってたのに、
大学に入学する今はこうして一緒に寝て騒いでるっつーのが・・・?どうかしました?」
体が不意に軽くなったので、視線をむければ、今まで覆いかぶさっていた榛名が
隣の枕に倒れ伏していた。
「いや、そういう意味じゃなかったんだけど・・・。
・・・お前、高校入学したとき、そんなこと思ってたんか」
あれ、もしかして今の言い方は、きつかっただろうか。
自分の言葉がときどき雑なのを自覚している阿部は、
脱力しきったような榛名の姿を見て、慌てて言い添える。
「でも、今はそんなこと思ってないですから」
「当たり前だっつーの」
榛名が枕から顔をあげて、再びじっと顔を覗き込んでくる。
なぜか頬が熱くなるのを感じて、部屋の照明がぼんやりしていることに感謝した。
阿部を見つめたままで、榛名がため息をつく。
「お前さあ・・・なんかイヤなことあったらちゃんと言えよ」
「は?」
「中学んときみたいに一人で抱え込んで、勝手に俺から離れんなってことだよ」
「・・・」
ほんとに不思議だ。
3年前の自分は、本当にもう二度とこの人と一緒にいることはないと思っていたというのに。
元希さんが、こんなふうに自分に気をかけてくれるなんて思いもしなかった。
狭量な思い込みで、3年前には見えなかったものがたくさんあったことを今の自分なら少しはわかる。
元希さんとのことだけじゃなくて、野球や人間関係も自分がわかっているようで見えていないことが、
まだまだたくさんあって、そんなことがわかるくらいには高校の3年間で自分も成長したんだろう。
こうやって人は少しずつ変わっていくんだろうか。
これからの大学生活で、また今、見えないものが見えるようになるのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていたら、榛名の傍にいるせいか
ほどよい体温が心地よくて、とろりと瞼が重くなってくる。
「タカヤ?」
黙り込んでしまった阿部の頬に榛名の指が触れてくる。
乱暴なまでの剛速球を投げるこの左手が、こんなにも優しく自分に触れてくるなんて
以前は想像すらできなかったけど。
もしかしたら今の元希さんとなら、上手くやっていけるのかもしれない。
「俺、ほんとに今はけっこう元希さんのこと好きですよ」
18年間住み慣れた家と家族を離れて、榛名と一緒に生活するということに
漠然と抱いていた不安がゆっくり消えて、安らかな心地になってくる。
「タカヤ」
頬に触れている長い指が、撫でるように頬を包み込んで、榛名の顔が近づいてくる。
熱くなっていた頬に触れる榛名の手が、少しだけ冷たいのが気持ちがよくて、瞳を閉じた。
「え?タカヤ?タカヤ!!おま、もう寝てんのかよ!!ちょっと待て!」
耳元で榛名の騒ぐ声が数度聞こえたけれど、それすらも心地よい子守唄のようで、
そのまま引きずられるように阿部は深い眠りの淵に落ちていった。
翌朝、目が覚めると榛名はロードワークにでかけるところで、そのあいだに身支度を整えた阿部は、
いつも母親が作ってくれていたような朝食を見よう見まねで作って準備した。
榛名が戻ってくるのを待って、一緒に朝食を食べることにしたのだが、
帰ってきてテーブルについた榛名は何やら不機嫌そうで、ろくに喋りもしない。
低血圧で目覚めが悪い人ではないし、朝食が気に食わないんだろうかと尋ねてみれば、
おいしいよ、とだけ答える。
なんだか気まずくて、だけど先にテーブルを離れるのもためらわれるので、
見るともなく新聞に目をとおしていると榛名がため息をつくのが聞こえた。
「・・・どうかしたんですか?」
「なんでもねー」
うなるような返事は、やはりどう考えたってなんかあるとしか思えない。
「昨日、もしかしてあまり寝れなかったんですか?」
いくら広いとはいっても、同じベッドで寝るのは無理だったんじゃないだろうか。
自分は熟睡してしまったけれど、榛名がどうだったのかは知らない。
はたして、図星だったのか榛名の動きが固まる。
「・・・信じらんねーよ。あんな即効で寝るなんて」
阿部に話しかけるというよりも独り言のように呟く。
「何がっすか?」
「何がって、お前に決まってんだろ」
「俺ですか?」
そういえば昨日は疲れてたせいか、すぐに寝てしまった気がするが。
まさかそのせいで不機嫌なんだろうか。
「それで怒ってるんすか?」
「怒ってねーよ。お前の鈍さにあきれてるんだよ」
「俺、何かしましたっけ?」
「してねーからあきれてるんだっつーの。もういいよ、俺、今朝はもう出かけなきゃなんねえし」
ごちそうさん、と言って榛名が席を立つ。
会話を拒絶するような姿に、思わずむっとなった。
「そんなん、ちゃんと言ってくれなきゃわかんないじゃないすか」
「お前には言ったってわかんねーよ」
「あんた昨日俺には、イヤなことちゃんと言えっていったじゃないすか!
元希さんだってちゃんと言ってくださいよ」
「俺のはイヤなことじゃねーから、いいんだよ」
「じゃあなんでそんなに機嫌悪いんすか」
「そんなことねーよ」
「絶対、機嫌悪いです!」
断言すると、榛名の表情がさらに険しくなる。
「うっさい!俺だっていろいろ我慢してんだよ!
だいたいお前さっさと寝やがって、ゆさぶっても起きねーし!」
「そんな、元希さんより先に寝ちゃいけないっていうんすか。
無茶言わないでください」
「そういう意味じゃねーよ。あーあ、お前鈍いと思ってたけど、
ここまでひどいとは思わないじゃねえか」
大げさに嘆く榛名の姿に、憤りが消え次第に不安になってくる。
何かまた、大切なことを見落としたままなんだろうか。
鈍い鈍いといわれる理由はわからないけれど、そう言われるからには
自分で気づかないうちに何か不快なことをしでかしているのかもしれない。
「・・・元希さんがイヤなら俺、出て行きますけど」
荷物を解ききっていない今ならまだ、すぐに引っ越せる。
入学式までに部屋を見つけられるかどうかわからないけれど、
条件を選ばなければなんとかなるだろう。
もともと一人暮らしがしたかったのだし、榛名との同居は不本意なことだったのだ。
だから、このまま出て行けと言われたって万々歳のはずなのに、
自分から出て行くことを提案しているというのに、なぜか胸の奥がヒリヒリする。
それでも視線をそらさずに、榛名をじっと見上げていると不意に額を小突かれた。
「痛っ」
「誰もそんなこと言ってねーだろ。ばーか。
時間がないっつーのに、そんなかわいい目で見んな」
「かわいくなんかありません」
額を押さえて睨みつけると、榛名が苦笑する。
「悪かったな。イライラしてたんはタカヤのせいだけど、
タカヤのせいじゃないから。気にすんな」
「全然意味わかんないんですけど・・・それって、やっぱ俺のせいなんじゃ・・」
「お前のせいじゃなねーし。わかんなくていいよ。そのうちわかるから。
だから出て行くとか言うなよ。ま、出て行ってもすぐに連れ戻すけどな」
「・・・・・なん・・」
なんでそこまで俺に気をつかってくれるんですか?
しかし、阿部の問いかけは、言葉にする前にかき消される。
「おわ、マジ時間やべえ!」
時計を見た榛名が叫んで、外出の準備に走りだすのをあっけにとられて見守った。
5分足らずで榛名は支度を整えると、慌しく出かけていこうとする。
「俺、今日も夕方には帰れっから。んじゃ、いってくるな」
「・・・いってらっしゃい」
やはりどこかしら複雑な気分で言葉をかけると榛名が嬉しそうに口元を緩める。
俺たちやっぱり新婚みたいだなと笑って、そのうえ「いってらっしゃいのキス」と
ふざけて顔を寄せてくるから蹴って追い出した。
嵐のように榛名が出かけて行った後、改めて新しく住むことになった部屋を見渡すと、
一日過したせいなのかなんなのか。見慣れなくてなじめなかった広い部屋に、
なぜか少しだけ親しみがわいてきたような気がする。
ああ、まったく。
なんでこんなことになったんだろう。
・・・けど。まあ、いいか。