阿部は不意に眠りから目が覚めた。
暗がりの中、ベッドの脇に置かれたライトだけが小さい光を放っている。
時計を見るのも億劫なくらい頭がぼんやりしていて、まだ眠れるよな、
と阿部は再び眠ることにする。
しかし、ふと、広いベッドの隣にいるはずの人の気配がないことに気づいて、重いまぶたをあげた。
見れば、やはり隣は空っぽで、シーツがそのまま広がっているだけだ。
・・・今日は居ない日だったっけ。
大きなベッドで一緒に眠っている榛名は、遠征などで留守にすることが多いから、
阿部がベッドを独り占めしていることはしょっちゅうだ。
そのたびに少し、何かが欠けているような物足りない気分になるのは、
このベッドが無駄に広いからだと、阿部は思っている。
眠気に誘われるように、再び目を閉じかけた阿部は、
元希さん、今日はどこに居るんだっけ・・・とまわらない頭で考えて
・・・・いや、やっぱりうちに居たよな。
と思い出し、再度目を開ける。
そういえば、いつも一人で寝るときはライトをちゃんと消している。
なにしてんだ?
覚醒しきっていない身体を腕だけ動かして、時計を見れば、午前2時。
トイレかな。
と考えて、再び眠ろうとするのだが、耳をすませても部屋の中のどこにも
まったく人間の気配が感じられない。
・・・・。
眠くてたまらないのに、沈黙の中で音を捕まえようとする意識だけが冴えてきて、
目を閉じても心地よい眠りがなかなかやってこない。
・・・・・。
おおかたリビングのソファでテレビを見ながらそのまま寝てるんだろ、
と気配がない静寂の理由を考える。
でも、あの人ベッドじゃなきゃ眠れねーとか言ってたよなあ。
・・・・・。
いやいや、俺は眠いんだ。
・・・・・。
明日は一コマから講義あるし、ちゃんと寝ておきたい・・・。
・・・・・。
ああっ、もう。あの人はなにやってんだ。
つらつら考えているうちに、すっかり目が覚めてしまった。
潔くあきらめて、阿部はベッドから起き上がる。
沈黙を破らないように、そっと足を忍ばせてリビングの様子を窺ったが、
真っ暗い部屋の中に榛名はいない。
自分の部屋か?
とはいえ、榛名の部屋はほとんどトレーニングルーム状態で、
あまり人間が眠れるような環境ではないのだが・・。
・・・・確認するだけだ。
あいつのことだから、布団もかぶらず寝てるかもしんねーし。
寝冷えするようなかわいい人じゃないけど、
下手すりゃエアコンつけっぱなしかもしれねーし、
肩を冷やしたらよくねーし。電気代だってもったいねーし、
だから、確認するだけなんだ。
心の中で思いつくだけの言い訳を考えつつ、阿部はそっと榛名の部屋の扉を開ける。
でも、やはりそこにも誰もいない。
あとは、俺の部屋だけど。
ズカズカと自分の部屋に足を踏み入れても、当然のごとく榛名の姿はなくて。
・・・?どこいったんだ?
やはり部屋の中のどこにも、榛名の姿はない。
どこかに出かけると言っていただろうか、と眠る前の記憶をたどってみても、
ふつうにおやすみの挨拶をしただけで、何も言ってなかったように思う。
そもそも、榛名は1週間の遠征を終えて帰ってきたばかりなのだ。
今夜眠る前だって、何が面白いのか自分にベタベタひっついてきていた。
田島といい、俺のまわりのプロ野球選手は下ネタ野郎ばっかりだ。
榛名のそれは自分限定のセクハラだと気づいていない阿部は、
眠る前の事を思い出してため息をつく。
それにしても、いったいどこにいったのだろう。
居るはずの人が居ないという状況が、阿部をひどく落ち着かない気分にさせる。
「元希さん?」
ひっそりと静まりかえった部屋で、名前を呼んだってもちろん返事はかえってこなくて、
暗がりに吸いこまれた自分の声がやけに頼りなく聞こえてしまう。
呼んでも返らない返事に、不意にシニアの頃の榛名の背中を思い出す。
今だってきまぐれで一緒に住んでいるだけで、
いつだってあの人はこうやって、自分を置いていくことができるんだ。
じわじわと胸を侵す不安の連鎖に陥りそうになって、現実的なことを考ようと試みる。
神隠し、なんてありえないから、部屋に居ないとなると外出しているはず。
だとしたら・・・。
玄関に行って電気をつけ、靴箱の中をたしかめると、
榛名のジョギングシューズだけがなかった。
まさかこんな夜中にロードワーク??
いくらなんでも元気すぎやしないか?
とりあえず、ジョギングシューズがないことで榛名の行方がなんとなくわかり、
ちょっとだけ安心しかけたその瞬間、鈍く扉の施錠をいじる音がしたかと思うと、
あっという間に玄関が開かれた。
「うおっ・・へ、タカヤ?」
案の定、ロードワークに出かけていたらしい榛名は、
予想外の玄関の光と阿部の姿に目を見開く。
「・・・おかえりなさい。ちょっと目が覚めただけですから。じゃあ、おやすみなさい。」
見慣れたその姿になぜかじわりと目が熱くなるほど安堵を覚えた自分と、
そんな自分を榛名に見られてしまったことがきまり悪くて、
一息に言うと、阿部はすばやく榛名に背をむけて寝室へと引き返す。
なんなんだよ。いったい。
まるで俺が元希さんが居なくて、探して待ってたみたいじゃねえか。
八つ当たり気味にベッドに身体をうずめた。
もう寝る。今すぐ寝る。絶対寝る。
タオルケットを顔まで引き寄せて、固く目を閉じていると、
背後から榛名がやってくる気配を感じる。
「ターカーヤ」
やけに声が嬉しそうで、それが余計に阿部の神経を苛立たせた。
「なに、もしかしてお前、俺がいなくて泣いてたの?」
「違います」
タオルケットをかぶって背中を向けたままで答える。
「そうかそうか。寂しかったか。ごめんな」
「だから違います!たまたま目が醒めただけです」
「で、俺がいないからびっくりして探してくれたんだな」
まったくそのとおりの状況だったのでさすがに言い返すことも出来ず、矛先をかえる。
「だいたい、なんであんたはこんな夜中に走り回ってるんですか」
「・・・んー。ほら、なんていうか、いろいろ男には
走り出したくなるときってあるじゃねえか」
「いい年して思春期ですか」
「タカヤが俺のこと、もっとかまってくれれば、こんなことしないですむんだけどな」
タオルケットからはみ出している阿倍の頭に、ぽんと榛名が手をおく。
「俺、こんな夜中に走り回る体力はありませんからね」
「一緒に走れとは言ってねーよ」
「じゃあなにしろっていうんですか。ほんと、わけわかんねえ。とにかく、俺寝ますから」
「もう寝んのかよ」
「当たり前です。明日は早いんです」
「つまんねー」
「あんたも寝ればいいでしょ。何時だと思ってんですか」
「それもそうだな」
「・・・・・。ところで、いいかげん頭から手、どけてくれませんか」
「いいじゃねえか、これくらい。へるもんじゃないし」
「・・・」
ほんと人をガキ扱いしやがって、まじ腹立つ。
だが阿部がもっと腹立たしいのは、
この頭にのせられた手を振り払うことができない自分なのだ。
くせなのか身長差のせいなのかなんなのか、
シニアの頃から榛名は阿部の頭に手をのせることが多かった。
そして、阿部はそんな榛名の手に、不思議な安心を覚えてしまう。
もはやこれはたんなる刷り込みなのかもしれないが。
・・そんなこと絶対口が裂けても、元希さんには言えねーけど。
勘のよい榛名に、とっくにそんなことばれているとも思わぬ阿部は、
頭にのせられた榛名の大きな手に、苛立ちと安堵のいりまじったむず痒さを感じつつ、
安らかな眠りについた。