榛名から呼び出しの電話がかかってきたのは、
阿部が連休中の合宿から開放された当日の夜のことだった。
明日会いに来いよ、と命令されて即座に断った。
いつだって榛名の呼び出しは突然すぎる。それに・・
「元希さん、まだ合宿中なんじゃないんすか」
「そ。お前よく知ってんなー」
すげーなーと感心されて、電話をブチ切りたくなった。
よく知ってるも何も、互いの合宿期間が微妙にズレているのがわかり、
連休中は会えないだろうから、やれるだけやっとかないと溜まって死ぬ、
とバカげたことをほざく榛名にさんざんな目にあわされたのは、つい先日のことだ。
次の日、気力をふりしぼって練習をこなした自分を自分でほめてやりたい。
こいつとつきあう唯一のメリットは精神力が鍛えられることなんじゃないだろうか。
「んだよ。お前んとこ今日で合宿終ったんだろ。明日も練習か?」
「・・・・いえ、違います、けど」
ウソをつこうか迷いつつ、阿部は結局正直に答えた。
いつもなら合宿明けの翌日からだって練習があるというのに、
今回はモモカンの仕事の都合がつかなかったとのことで、
運悪く明日だけは自主練習になってて空いている。
「んじゃ、いーじゃねえか」
「いや、でも自主練って言われてるんで・・」
「じゃ、いっしょに練習すりゃいーだろ」
「そんなこと、できるわけないじゃないすか!」
他校生の自分が武蔵野第一の合宿に混じって練習するなんてありえない。
「あー。大丈夫。うちの合宿は明日午前で終わりだから。
昼からはOBと合流して打ち上げすんだ。ちょっとくらい別行動してても
わかりゃしねえよ。だからこっちに来いっつってんだよ」
「それでも合宿中には変わりないじゃないすか。会うのは帰ってきてからにすりゃいいでしょう」
「帰ってからじゃダメだから来いっつってんだろ!」
「何でダメなんすか」
「あーうるせえな、とにかくオレが来いっつったらおとなしく来りゃいいんだよ!」
やはり電話を切ってやろうかとギリギリまで逡巡して、結局阿部は折れることにした。
このバカが人の都合など聞かないのは毎度のことだし、
ここで無視して断って後々揉めるもうっとうしい。
あきらめて、精一杯の抵抗の証にため息まじりのやる気ない声で聞いた。
「わかりました。で、オレはどこ行きゃいいんすか」
「海」
―――オレはなんてバカなんだろう。
はるばる電車に揺られて榛名に指定された潮の匂いのする駅に降り立って
あらためて阿部は嘆息した。埼玉から海は遠い。
昨日、電話で榛名に「海」と言われたとき、すかさず電話を切って
その後鳴り響く着信音もひたすら拒否してやったのだが、
しばらく後、メールがはいった。
<電波悪くて繋がらねえ。××駅に2時>
てめえはどんだけ前向きなんだ。
無視してんのがわかんねえのか!ふざけんな、誰が行くか!
と、メールを打ちかえそうとしたのだが、
文字だと勢いがつかなくて、さらに合宿明けで疲れていることもあり、
ひたすら投げやりな気分になってしまってあきらめた。
自分と榛名との関係がずるずると続いているのは、
きっとこの諦念のせいなのだろうと、考えてまたため息がでる。
親戚のおばさんが離婚は結婚より数倍疲れるって愚痴ってたのは、こういうことなんだろうか。
まだ16歳なのにそんな言葉に深く共感できる自分って何なんだ。
榛名に指定された時刻にはまだ余裕があるし、あのいいかげんな男が
時間通りに現れるなんてことはありえない。
呼び出されたと思うと腹立たしいが、海に来るのは久しぶりだから、
どこかしら浮き立つような気持ちはある。
ここからだと海は見えないが、潮の匂いや湿気を含んだ風、
駅前から見える店先には、貝やらシュノーケルセットなんかが並べられていて、
海がすぐ近くにあるのだと感じさせられる。
せっかくだから先に一人で散策していよう、と国道沿いの沿道を歩いていると、
防風林が途切れ、ふいに視界が広がって海が見えた。
海水浴にはまだ早い時期だが、連休中だし天気もいいから、
砂浜にはぽつぽつと人影が散らばっている。
防波堤がポカリと空いた箇所に、砂浜へと続く石段があったので降りてみた。
慣れない砂浜に足を取られながら進むと、身体に響く波の音。視界いっぱいに広がる海。
一人で海を見るなんて初めてだと、阿部はあらためて気がついた。
いつも家族や友達と海水浴に来るから、こんなふうに海をじっくり見ることなどない。
あんなふうに騒いでばっかだもんな。
波打ち際で、大騒ぎして鬼ごっこのように走りまわっている人影に、
唇を緩めかけて、そのまま固まった。
―――もときさん?
遠いから顔がはっきり見えないが、目を細めて凝視すれば、走り回っている二つの人影のうち、
バカ笑いして逃げている大きな姿は間違いなく榛名だ。
もう一つ榛名を追い掛けているひとまわり小さな姿も、どこかで見たことがあるような気がする。
頭の中のデータ帳をひもといて、記憶を辿って、
そうだあれは元希さんの前の武蔵野のエースだ、と思い出す。
名前はたしか、・・加具山さんだ。珍しい名前だからよく覚えている。
榛名の先輩だから、もう卒業しているはずだけど、そういえば今日はOBが集まるとか言っていた。
二人の様子から察するに、たぶんまた榛名が要らないことを言って
先輩に追い掛け回されているといったところだろう。
浜辺を賑やかに彩るその姿をぼんやりと眺めていた阿部は、
元希さんはあの人のこと気に入っているんだな、と察する。
榛名は興味のない人間はハナから覚えようともしないが、好きな人間にはやたらと構う。
あんなふうに一緒にバカ騒ぎをしているのは、お気に入りの証拠だ。
そんなことを推測しながら、楽しそうな榛名の姿を見つめていて、ふと我にかえった。
せっかく海を見にきたというのに、他人と騒ぐ榛名の姿をこんなとこで覗き見しているような
自分は虚しくないか?
榛名に気づかれないうちに他の場所へ移動しようと背を向けかけた、そのとき、
「タカヤ!おい、タカヤ!」
いつものことながら、周囲を考えないデカい声で名前を連呼されてしまった。
間の悪いことに榛名に姿を見つけられてしまったようだ。軽く舌打ちして、振り返る。
「タカヤ!なんだよ。もう着いてたんか」
わずらわしい砂浜の足枷もなんのその、あっという間に駆け寄ってきた榛名はご機嫌そうだ。
後ろから遅れて追いついてきた加具山は、見慣れない阿部の姿を戸惑い顔で見ている。
軽く阿部が目礼すると、慌てたように挨拶をかえしてきた。
年上のはずなのに、どこか小動物めいたかわいい感じの人だ。
「榛名、じゃあオレ、先に行くからな」
「うっす。先輩もお幸せに」
「余計なこと言うな!」
真っ赤になった加具山に蹴られて、榛名が笑いながらそれを避ける。
そんな二人の様子を間近で見て、やっぱり仲がいいんだなと阿部は先ほどの推測を確信した。
榛名にからかわれた加具山が怒りながらも去っていくと、広い砂浜に榛名と二人きりだ。
「・・今の人って、元希さんの前のエースだった人っすよね」
「そ。加具山先輩。あの人いじるとおもしれーんだよ」
「そうっすか」
一緒に騒ぐ相手がいるんなら、なんでわざわざオレを呼び出すんだよ。
その人と遊んどきゃいいだろう。
オレがここまで来んのに、いったい何時間かかったと思ってんだ。
そう言ってやりたいのに、なぜか上手く言葉が出てこなかった。
口に出せない代わりに、不愉快な刺が渦を巻いて胸にたまる。
ほかに話すことも思いつかないから、とりあえず榛名から視線をそらして海を眺めた。
「な、海、キレーだろ!」
阿部の不機嫌な状態に気づきもしない榛名が楽しそうに声をかけてくる。
なんであんたがそんなに得意そうなんだよ。
別にあんたの海でもなんでもねーだろ。
不可解なイライラのせいで、なんでもない榛名の言葉すら腹立たしい。
「いつもあんまり海なんか見ねーし。合宿ん時、朝晩ここの砂浜を走りこんでて、
すっげーキレイだったからタカヤと一緒に海が見たいと思って呼んだんだよ。
どーだ。来てよかっただろ」
「・・・・・まあ。そうですね」
青春ドラマのポスターに使えそうな爽やかな笑顔をうかべて榛名が言う。
顔だけはいいんだよ。顔だけは。性格は最低だけど。
だいたいどうしてこのバカはこういう歯が浮きそうなことを平気でいえるんだ。
きっと先祖にイタリア人とかフランス人とかスペイン人とか、
そういうラテン民俗の血が流れているに違いない。
聞いてるこっちが恥ずかしいじゃねえか。
熱くなった顔を見られたくて顔を背けたのに、ふいに顎を捕らえられ、驚く間もなく、
嬉しそうに笑う榛名の顔が近づいてきて、そっと唇を重ねられる。
「・・んっ」
そのままさらに深く咥内を探られそうになって、動転のあまり榛名の頬を思いっきり両手で突っ張った。
キスの途中でいきなりのけぞらされた榛名が激昂する。
「いってーな!何すんだよ!」
「あんたこそ、何やってんですか!こんなとこで」
「誰も見てやしねーよ」
のけぞらされた拍子に痛めたのか、首筋をおさえつつも榛名はしれっとしている。睨みつけ突き飛ばして
距離をとろうとしたら、逆に腕をとられて背後から抱きかかえられてしまった。
「離せっ!」
「いーじゃねえか。久しぶりなんだし」
「どこがだよ。この前会ったばっかだろーが!」
「そうだっけ」
とぼけたように答えながら榛名は、さらに密着するように抱え込んだ阿部の肩に顎をのせてくる。
頬に榛名の長い髪が触れてくすぐったい。
まったくこの男は。
こんな日中の砂浜で、男同士がひっついてるなんてヘンだろ。
誰かに見られたらどうすんだよ。
そう考えるだけでも人一倍、羞恥心の強い阿部は居たたまれなくなるのに、
なぜか榛名の腕を振り払えない。
こいつの力が強くて動けないだけだ。
後ろから抱きしめられて気持ちいいなんてことは断じてありえない。
「なあ、タカヤ」
「なんすか」
葛藤しながらも腕の中におとなしくおさまっていると、満足そうな榛名が声をかけてくる。
「オレ、合宿中ずーっとタカヤに会いたくって」
だからそういうことを言うなっつーの。
あきれつつも、顔をよせた榛名の声が耳元で響く上に波の音が重なるから、いつになく胸が騒いだ。
「で、あそこに、いい感じの小屋があんだろ」
視線で促された先には、漁師が作業に使いそうな掘っ立て小屋が見える。木造のただの小屋で、
お世辞にもいい感じには見えない。首を傾げて見れば、視線の合った榛名が綺麗な笑顔を浮かべた。
「タカヤがここにきたらあそこでやりたいなーって思って・・うわっ。何すんだよ!」
「知るかっ。一人でやってろ」
抱きかかえられていた状態で、榛名の顎に頭突きをしてそのまま腕からすり抜けた。
ばかばかしい。結局それかよ!
顎を押さえた榛名が不満げにこぼす。
「なんでお前がいんのに一人でやんなきゃなんねえんだよ。ムナシすぎるだろ」
「だからってそんなことでオレを呼び出すな!あんたいったい、オレのことなんだと思ってんすか!」
「えー、タカヤはタカヤだろ」
「そうじゃなくてっ・・・・。とにかくオレはいやです。そんなに誰かとやりたきゃ、
さっきの加具山さんとでもやっといてください!」
「なにわけわかんねーこと言ってんだよ。なんで加具山さんなんだよ。
あ、もしかしてタカヤ妬いてんのか」
きょとんとした顔になっていた榛名はたちまちニヤニヤと人の悪そうな表情を浮かべる。
「バカか。妬くわけねーだろ」
「んなことしねーよ。タカヤのほうが断然エロいから安心しろって。
それに、あの人彼女できたらしいしな。だいたい加具山さんは純真そうだから、手が出せねえ・・
うわっ痛って!てめえ、ナニすんだよタカヤ!」
「・・・オレ、帰ります」
榛名の足を渾身の力で踏みにじって、背を向けて全力で走り去る。
「おいタカヤ、待てよ!」
制止の声は振り切った。防波堤までたどり着いてから
ふと背後を見ると、戻って来いとでもいうように榛名が腕を振り回している。
誰が戻るか、このバカヤロウ。ああ、ばかばかしい。
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